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北川君の幼妻

 新婚夫の帰る足取りは、羽毛が舞うごとく。
 軽く軽く、浮かれている。
 では、かわいい彼女が家で待つ健康な男子学生の足取りはどうか?
 北川潤を例に挙げるとその足取りは…果てしなく重かった。

 重い足取りでも、歩いていれば目的地には着いてしまうのが悲しい性で、その少年は自分の家の表札を見てため息をついた。
 「北川」とかれた表札は白く、それを恨めしく見つめる潤の目には空虚なものに映った。
 短い石畳を歩き玄関前まで近づくと、中からかすかに包丁とまな板が当たる音が聞こえてくる。早くはないが、リズミカルな音だ。
 鼻腔をくすぐるスパイシーな匂いが食欲をそそり、オーブンの音が気分を盛り上げる。
 その甘い誘惑に、かなう者などあろう筈もなく。


『ガチャリ』
 気がついた時にはすでに、彼の手は玄関を開いていた。


「お帰りなさい、潤くん!」
 甘い声。駆け寄ってくる嬉しそうな笑顔。腕の中でさらさらと流れる黒い髪。程なく香る甘い匂い。
 抱きついてきた彼女を抱き返そうとして、はた、と北川少年の腕の動きが止まる。…そのまま動けば腕は空振りしてしまう現実に、ようやっと気がついた。
 彼女の頭は、自分の胸より幾分か下、あばらの下方面にぶつかっている。
 見上げる顔には、まだあどけなさが残る。
 彼女は精一杯の笑顔で、愛しい人へ尋ねる。
「ご飯にする? お風呂にする? それとも私?」
 甘い、甘い声の彼女の頭へ、北川の頭がぶつかった。


「潤くん、痛くなかった?」
「痛かった」

 とりあえず入れてもらったコーヒーをすすりつつ、何とか威厳を保とうと、北川はあえてきつい物言いをして見せていた。
「あ〜ん、怒っちゃや〜ん」
 ちろりと舌を出す少女…北川ふたばは、甘えたような上目使いで北川潤を見る。甘いまなざしに甘い声、それだけで許してしまいたくなるのをぐっとこらえて、北川潤はふたばに言葉を続ける。

「もうあんな事は言うな。おまえの発言は、かなり誤解を招くぞ」
「ええ〜、私間違ったこと言った?!」
「言った!!」
 言われた言葉を思い出さないように(思い出すと神経が焼き切れてしまうので)、潤はふたばに教育的指導をすることに決めた。
「いいか、おまえは俺のだなぁ」
「未来の奥さんだなんて恥ずかしいぃ〜」
 ふたばの言葉にもう一回つんのめりそうになる身体を支えて、潤は頭を振った。
「ち〜が〜う〜だ〜ろ〜」
「違わないよ、だって潤くん、私のこと好きだって言ったよ、花束を持って」
「はぅあっ!!」
 あわてて手を振る潤をよそに、ふたばはうっとりと遠くを見るような眼差しで話を続ける。

「恋人だっていってくれたよねぇ、あのとき。嬉しかったよ」
「あれこそ若気の至りだ、もう忘れろ、頼むから」
「良いじゃない、私たち親戚だし、親公認だし。どうして手を出してくれないかがわからないよ」
「出せるか、7つも下のおまえにっ! 犯罪だ犯罪!!」
「年の差なんて関係ないよ、愛があれば」
 とふたば嬢は言うが、残念ながら実際的には犯罪である。
 ふたばは嬢はまだ、小学生である。
 もちろん、手を出したら潤は犯罪者になってしまう。
「頼むから、危険な発言はやめてくれ」
「じゃあ、ご飯とお風呂、どっちが良い?」
「それ以前に、どうしておまえがうちに居るんだ」

 くりっとした黒目がちな瞳、ちょこんと傾げる首も愛らしくふたばは潤を見上げる。
「おばさまとおじさま、こんばんは居ないんでしょ? 夕食を一緒に食べてって、言われたよ」
 ふたばの言葉は事実だ。だがその裏には、ふたばの両親も帰りが遅くなるため子守を潤に押しつけた部分もある。
 親同士にとっては、二人は『仲のいい親戚』でほほえましい関係と映っている。…のだが、ふたばが抱いている感情は、それより強かったりしている。
「私、張り切っていろいろ作ったのよ」
「ああ、そうかもしれないが、俺はこれから友人とパーティだ、出かけるんだ、一人で…」
「お出かけ? じゃあ用意しないと」
 話を最後まで聞かず、ふたばは立ち上がり2階の潤の部屋へと向かった。
「着替え取ってくるよ。潤くんは顔洗って」
「まて、俺の部屋には勝手にはいるな!」


 そんな少々のごたごたを内包した北川家のチャイムを、来訪者は押していた。
「は〜い、ただいま〜」
「おまえが出るな!」


 玄関の扉から、もつれるように二人は転がりかけた。
 体勢を立て直して客人を見上げる。
 緩やかなカーブを描いた茶色の髪、くっきりとした顎のライン。
「何をやってるの」
 驚いたはずなのに、あまり表情を変えない瞳。
「あ、いや、香里……」
「いらっしゃいませ、潤くんのお客様ですね」
 慌ててふたばの口をふさごうとするが、潤の動きはわずかに遅かった。
 一瞬の間をおいて、香里は二人の顔を交互に見ると一言。
「かわいい彼女ね。でも、手を出したら犯罪よ」
「はうあっ」
「はい、初めまして、潤くんがお世話になってます」
「やめろ〜」
 涙声になりかかってる潤の声。それをかまわぬ香里とふたば。
「一応、迎えに来たんだけど、その調子だと潤は行かないわね。名雪達にそう伝えておくわ」

 背を向けようとする香里の手を掴もうと潤は手を伸ばした。
「あ、だめ! 潤くんが握って良い手は私の手だけだもん」
 阻止しようとふたばが動く。
 すると、どうなるか。
 背中にのしかかっていたふたばと自分を支えきれずに、ぐしゃりと音を立てて潤は玄関の土に突っ伏した。
 その上には、重なるようにふたばが。
「本当に仲がいいわね。私、おじゃまだったみたいね」
「はぅあぁぁ〜」
 冷たい笑みの香里を、情けない声を出す潤が見上げた。


「同じクラスの方でしたか、潤くんは学校ではどうして居るんですか? ご迷惑とかかけていませんか?」
「全然。さっきまでと同じ感じ」

「やっぱり、潤くんったらマイペースなんですね」
 おまえほどじゃない、と心の中で付け加えて、潤は上着を羽織った。
 さすがに出かけるのに着替えをしたが、その用意をふたばがしようとしたのを「香里のお相手」という名目を付けて香里に任せたが、その隙に二人は仲良くなってしまっていた。
「準備できたぞ、香里。もう行こうぜ」
「あら、このかわいい彼女も一緒でしょ」
「なんでふたばを連れて行かなきゃならんのだ」
「私、たくさん料理作ったから、持っていったら喜ばれると思うよ」
 香里とふたばに挟まれて、潤は自分の立場の悪さをひしひしと感じた。
「いや、でも、ふたばは俺達の友人と話しても楽しくないだろ?」
「あら、私とは楽しく話せているわよ」
「ええ、香里さん、とても話し上手で、私も楽しいです」
 すでにふたばと香里に『結託』の二文字が見え始めた。
「でも、急に追加っていっても…」
「それなら、名雪の携帯に電話を入れて置いたわ。さっき電話借りるって言ったんだけど、聞こえなかった?」
「なにぃっ!」
 今日何度目かの叫びをあげつつ、潤は倒れそうになる自分を励ました。

「もう、お料理はタッパーに詰めたよ。たくさん食べてもらえると良いな」
「大丈夫、とてもおいしそうだったわよ。小学生であんなに料理が出来るなんて、愛情のたまものね。良い彼女を捕まえたわね、潤」
「彼女じゃない〜」
「あら、香里さんったら」
 元気きわまりないふたばに引きずられるように、潤は家を早々に出させられた。
「本当、良い彼女ね」
 本気とも冗談とも付かない笑顔で、香里が潤に耳打ちした。


「あそこの角を曲がれば門構えが見えるはずだから、後から来て。私は先に行って説明して置くわ」
「あ、だったら一緒に行くぞ」
「だめよ。潤、彼女はまだ小学生よ。私たちの歩調に会わせて歩いてきて、疲れてるはずよ。ちゃんとねぎらってあげないと」
 潤が返事に詰まると、香里はさっさと駆けだした。
「じゃ、うまくやるのよ」
 何をどううまくやるのか、潤にはわからないままに。
 香里の姿が見えなくなると、とりあえず潤はふたばから荷物を奪った。すでに潤の手には2個の包みがあったが、さらに包みが1つ増る。
「潤くん、私なら大丈夫だよ」
「とりあえず、持たせろ」
 視線を逸らしたままで答える潤を見上げ、ふたばはそっとその腕に寄り添った。
「…ありがと、潤くん」
 甘い香りが漂う。
「かなわないな」
 ふたばにとも、香里にとも付かない言葉を、潤は漏らした。
 見上げようとするふたばの頭を押さえて、そのままくしゃりとなでる。
「…大きくなったら、彼女って紹介してやる。それまで、今は大きくなることを考えてろ」
「……うん、わかった、潤くん」
 肩を寄せ合った二人に、雪は静かに降っていた。

「でも、今は彼女って言っちゃだめだぞ」
「ええ〜、やだ〜〜〜!」
「なにぃっ!」
 二人の声は雪に吸収されたが、そこには楽しげな響きがあった。
 寒くてそして暖かい、北の町の冬はまだ、始まったばかりの夕暮れだった。


END