物見の丘には、災いをもたらす妖孤が住んでいる。
…それは、古い言い伝え。
今は昔の、ただのお話。
人を襲う鬼を切る、一降りの刀を持つ少年がいる。
…それは、古い物語。
今は昔の、知る人のない話。
私は走っていた。
腕には熱を持って熱くなっている『弟』を抱きしめて。
どうしてこんな時、家に誰もいないんだろう。
どうしてこんな時、電話がつながらないんだろう。
どうしてこんな時、鬼なんかに追われるんだろう。
「そいつをよこせ」
鬼は確かにそう言っている。
私の何倍もの体を揺らしながら、裂けた口から涎を垂らしながら、鬼は追いかけてくる。
虎のものより長く鋭い爪を、かち合わせて音を刻みながら。
「どうしてこの子をねらうの? ただの小さな、男の子じゃない!」
叫んでも、誰も出てくる気配がない。
…そう、今夜はどこかおかしい。
家の明かりはついているのに、これほど騒いでいるのに、誰も窓から顔を出す気配がない。
車は通っているはずなのに、エンジンの音が聞こえてこない。
町に響いてるのは、ただ私と鬼の足音だけ。
抱いてる『弟』の重さと熱さがなければ、私はこの現実を夢だと思いたいほどに。
今日の町は、どこかおかしい。
でも、それを確かめる暇など与えずに、鬼は追いかけてくる。
怖がって逃げる私を楽しむかのように、より深い絶望を味あわせるために演出しているかのように。
「イヤ…どうして鬼がいるの? 嘘よ、こんなの、嘘よっ!」
角を曲がろうとした私の目の前に、電柱が倒れてきた。
目線をずらすと、その電柱の根本が何かに突かれて、折れたらしい痕跡が見える。
手刀で電柱を折った…人間業では、けして無い。
なま暖かい息が首筋にかかる。
「捕まえた…」
腹に響くような声が、私の右側でそう囁く。
「誰か…助けて…」
「助けてやるよ」
私のつぶやきに、応える人がいた。
鬼が私から離れ、その声の主に向かい合って、威嚇するように唸る。
その隙に振り向くと、そこには一人の少年がいた。
夜空のように黒い髪、見慣れない学生服、そして、一降りの剣。
その剣がひらめくと、鬼は異様な叫び声をあげた。
紅…ううん、紅よりも濃い黒い体液を振りまきながら、鬼は周りを破壊しだした。
塀も電柱も関係なく、腕一降りでなぎ払いながら、鬼は高く吠えた。
「あっちへ行くぞ」
少年は私の手を引く。
「あなた…は? 誰?」
少年の手はほんの少し冷たかった。
「忘れたのか? 俺の名を」
「え?」
端正ともいえる顔立ちの少年は、黙って私の手を引いた。
「待ってよ、そっちへ行ったら町から出ます! 弟を医者に診せないと…」
「その病気は医者じゃ治せない」
「え?」
「それより、あんたの弟なのか? そいつは」
私は、少年の顔を見つめた。
何でこの少年は知っているのだろう、『弟』の事を。
つい数日前、町中で急に私に抱きついてきた男の子、それが『弟』だった。
名前も覚えていない、親も憶えていない、なのに私の名前は覚えていた。
「美汐おねぇちゃん」
連れて行った交番でも、私の親が迎えにこなかったら本当の弟だと思いこまれるところだった。
親が見つかるまでと、家で預かってからは尚更本当の兄弟かのように、弟は私につきまとってきた。
私の側に来ては、話し中の電話を切ったり、貰ったばかりの賞状に落書きしたり、いつも私を困らせていた。
でも、それでも…。
最近、あまり走り回らなくなって。
最近、あまり笑わなくなって。
最近、物を食べなくなって。
一緒に遊べていた時間が、かけがえがなかったと思い知らされて。
両親のいないこの夜に、とうとう『弟』は高熱を出した。
「美汐おねぇちゃん」
その言葉も、ここ数日聞いていない。
「さぁ、着いたぜ。ここが、やつを倒すには最高の場所だ」
少年の言葉に私は、初めて町から遠く離れたことに気がついた。
遠くに山並み、少し手前に町の灯り、そして足下は一面の草原が広がる丘。
その風景に、私はどこか懐かしいような、でもそれは思い出してはいけないような気がした。
「ここはどこですか?」
「知ってるはずだ、あんたならな」
座り込むと、草が程良く冷えて心地よい。
柔らかい場所を探して、そっと『弟』を横たえる。
…確かに懐かしい。『弟』に膝を枕に貸すと、尚更その感情は強くなる。
「知っているような気がするのに…思い出せない…。あなたは、この場所がどこだか知っているの? それにここへは、さっきの鬼は来るの?」
少年を見上げると、剣を構えたまま、少年は町の方向を見ていた。
「ここにやつは必ず来るさ。あんた達を探しにな。ここがどこかなんて、俺よりあんたの方が詳しいんじゃないか?」
「…わかりません…思い出せないんです…」
「じゃあ、思い出してやることだな。それはあんたの弟を助けることにもなるかもしれないぜ」
「どうしてあなたはそんなことを知っているんです? あなたはいったい…」
誰なのか? そう聞こうとした瞬間、うなり声が風に乗って耳に届いた。
冷や水を浴びせられたかのように、私の体中に鳥肌が立つのがわかる。
あの声は、鬼だ。
鬼が、私たちを追いかけてきた。
「だめ…助からない…。あなたも逃げて、あいつの標的が私なら、あなたは助かるかもしれない」
「いや、そういうわけにもいかないんだ」
すらりと、闇に光る切っ先を正面に向け、少年は地を蹴った。
同時に巨体が立ち上がった。
両の瞼から未だに血を溢れさせ、身体には自分の物とは別の赤い液体を大量に付着させ。
そして、血なまぐささを身体にまとって。
「あがいてんなよ、死に損ないっ!」
少年の叫びとともに、剣は鬼の片腕を切り落とした。
落ちた腕は煙を上げながら消え、鬼はますます声を高く上げた。
が、無くなった腕を気にしていないかのように、もう片方の腕を振り回してくる。
「おい、美汐って言ったな」
背中をこちらへ向けたまま、少年は声をかけてきた。
「この鬼には、どこかに弱点があるはずだ。おまえはそれがどこか知っているはずだ。思い出せ」
「知りません、そんなこと知りません!」
「おまえしか知らないことなんだ。その坊主に聞けるなら、そいつでもかまわないんだがな。弱点をやらないと、こいつは暴れ続けるぞ」
言い終わると同時に、少年は高く飛んだ。
そのさっきまで立っていた地面に、鬼の爪が深く刺さる。
その爪は、私のつま先をかすっていた。
「ぃっ…」
私は声を押し殺した。鬼は私に気づかず、そのまま少年を追いかける。
「早く思い出せ、美汐! ここで昔、おまえは見たはずだ! こいつの弱点を!」
少年が剣を降りながら私に叫ぶ。
そう…私は…。
私は…。
うららかな午後、膝の上に暖かさと程良い重さを感じていた。
小さかった私と、小さい子狐。
私がおとぎ話をすると、意味が分かってるかのように私の膝の上に座り込んでいた子狐。
でも、ある日を境に、私はその子狐とは会わなくなった。
どうして、その子と会わなくなったんだろう?
私の目の前を、何かの肉片がかすめていった。
振り向くと、いつの間にか少年は腕から血を流していた。
剣の握りに血が伝い、とても握りにくそうにしている。
鬼にもそれがわかるのか、先程までと違い、うなり声が少なくなっている。
その光景を、私は確かに見たような気がする。
膝の上に、子狐。
平和なはずだった日々に、突然現れたモノ。
そして、そのとき私は……。
鬼が深く身体を沈め、一気に宙を飛んだ。
さっきまでの動きとは違うそれに、少年は一瞬反応が遅れた。
その一瞬の差が、鬼に味方した。
少年の口から、何かが溢れるのを見た。
そして鬼は満足げに鼻を鳴らしながら、ゆっくりと私を捜し始めた。
匂いはまだわかるらしく、犬のようにはいつくばって地面をかぎ回る。
その動きは、確実に私を追いつめていった。
膝の上の『弟』は息も絶え絶えで、少しも動かすことは出来そうにない。
「…見つけた」
鬼がにたりと、私を見て口元をほころばせた。
見つかった…!
じりじりと私へ迫ってくる鬼…そのまなざしは紅く。
その紅さに、私は確かに覚えがあった。
あの日、あのとき。
私はこいつと会っていた。
いつものように子狐と遊んだ帰り道、確かにこいつと会っていた。
そのときにこいつは、子狐に…。
「弱点は、右目です!」
思いだした。
あのとき子狐は、鬼に飛びかかって右目に歯を立てた。
そのまま私は逃げだし、鬼も子狐もどうなったのか、確かめに行かなかった。
そう…この丘は、子狐と遊んでいた場所。
「わかっ…くぅっ!」
少年は立ち上がろうとするけれど、支えに掴んだ剣の柄が滑って立ち上がれないでいる。 鬼は嬉しげに、口を開けて私へ覆い被さってきた。
身を引き裂くような叫び。
それは、鬼の口から出ている。
私は、その光景を見つめることしかできなかった。
さっきまで私の膝の上で苦しげにしていた弟が、その何倍もの巨大な鬼に、いつの間にか飛びかかっていたのだから。
血に塗れた首にしがみつき、右の目に深く指を突き入れているのだから。
「でかした、後は俺がやってやる!」
少年は剣を逆手に持って、後ろから鬼の右目に突き刺した。
切っ先は貫通して、紅い瞳から出ていた。
そして弟は…ゆっくりと地面に落ちた。
「!」
駆け寄ると、今度こそ本当に、弟の息は細くなっていた。
「あなた、だったの…」
その額をなでると、小さな傷を見つけた。
その傷は、昔遊んだ子狐と同じ場所、同じ形。
「また、私を助けてくれたの…」
私には、強くその小さな身体を抱きしめるしかなかった。
「どうやらあいつは、そいつの力が欲しかったようだな」
少年は、口元を拭うと弟をのぞき込んだ。
「この町の伝説…災いをもたらす妖孤。まだ小さいながらも一度はあいつを封じたその力、それが狙われたんだろう」
「……あなたは、どうしてこの子が私の元へ来たのか、知っているんですか?」
「…さぁな」
「きっとこの子は、私を責めに来たんです。私、忘れてしまったから。この子が助けてくれたのに、忘れてしまったから」
小さな身体は、少しずつ熱さが収まってきた。
でもそれは、回復したからではないことは見て取れた。
「俺にはそいつの考えはわからない。事実は、そいつがおまえを助けたって事だけだ」
少年は、剣を担いだ。
もう鬼の亡骸は、塵と消えていた。
「…あなたの名前、聞いていないです」
少年の背中に、私は声をかけた。
「俺に名など無いさ。ただこの剣に、『鬼切丸』と名があるだけ」
少しだけ振り向き、少年はつぶやいた。
「そして、命を短くしたとはいえ、人間になることが出来たそいつが、少しうらやましい名もない鬼だよ」
私の住む町には伝説がある。
『物見の丘』に住む妖孤は、災いをもたらすと。
その伝説は、本当だった。
『物見の丘』で出会った子狐は、私に『悲しみ』という災いをもたらした。
私の住む国には伝説がある。
『鬼切丸』と言う名の刀を持った鬼は、鬼を滅ぼすと。
その伝説も本当だった。
人の姿になった子狐を「羨ましい」と、そういってどこへともなく去っていった。
その話をすれば、誰もが笑う。
だから、私は心の奥にしまうことにしている。
だけど、事実は消えない。
思い出を忘れないように、私は制服のリボンを強く結んだ。
真新しい学校の制服を、また、あの少年には見せる日が来ることを祈りながら。