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夜にかかる虹

 満月が街を照らす。
 雪が降りれば白く染まる街を、今は月の光が白く照らす。
 薄い蒼、その中で白く浮かび上がる校舎、天上の月。
 北の町の秋の夜空は、とても静かに街を包んでいる。
 
 この光景を見るのは、久しぶりになる。
 夜の校舎なんて、もうずっと来ていなかったから。
 それなのに懐かしいこの場所へ来たのは、舞に呼び出されたからだ。
「久しぶりだな、夜の校舎なんて」
「佐祐理もですー。舞ったらどうして今頃『夜の学校へ行きたい』なんて言い出したんでしょう、お月見は過ぎちゃいましたけど」
「ま、少し覗きながら行こうぜ? 待ち合わせは屋上だろ?」
 俺は一緒に呼び出された佐祐理先輩と、懐かしい夜の校舎を歩いた。
 食堂への通路は鍵が閉まっていたけど、舞に差し入れを持ってきて一緒に食べた場所、職員室の前、舞が舞踏会で暴れたときの署名運動をした通路…。
「あ……」
 佐祐理先輩の足が、廊下の行き止まりでとまる。
 その場所は、佐祐理先輩が魔物に襲われた場所だ。
「早く行こう…」
 手を取った俺の腕を逆に引いて、佐祐理先輩は俺を引き止めた。
 忌むべき思い出の場所を、じっと見つめて。
「佐祐理先輩…もう、行こう」
「…少しだけ、思い出話をしませんか?」
 夜の校舎は、初めて俺達3人が出会った頃と同じく、静寂と月明かりとで幻想的な世界を醸し出している。
 今まで俺の知るその世界には、必ず舞がいた。
 だが、今は佐祐理先輩がいる。すでに制服を着なくなって久しく、今も普段着だが、幻想的な雰囲気をまとっている。
 窓から差し込む月明かりが、柔らかい佐祐理先輩の頬のラインをくっきりと描き、淡い茶色のかかった髪を優しく照らす。
 …その姿はまるで、月の女神のようだ。
 無表情に、少しだけ俯いて、息をしているかどうかさえ確かめたくなるほどに静かに、佐祐理先輩はその場所を見つめている。
「私、良かった、と思っているんですよ。ここで怪我をしたおかげで、私は仲間はずれにならないで済んだんですから」
「仲間はずれだなんてっ!」
 佐祐理先輩はゆったりと頭を振った。
「佐祐理は心配してもらえて幸せです。そして舞が何を悩んでいたのか、毎日何をしていたのか、知ることが出来て良かったと思っています。
 佐祐理は今まで、いろんな事を知らないでいました。
 父は完璧な人で、佐祐理はその娘だから完璧であるべきで、人はみんな幸せに暮らしている…そんな風に思っていた時期もありました。
 でも、本当はどうなのか。
 佐祐理は狭いかごの中で、与えられた環境を信じるだけの『生き物』から、舞や貴方と会うことで、自分で歩いていく『人間』になれたんです」
 雲に遮られたらしく、月明かりが消えた。非常灯だけでは、今の佐祐理先輩の表情は見えない。
 けれどかすかに、佐祐理先輩は微笑んだような気がした。
「佐祐理は馬鹿な女の子ですから、いつも傷を作ってから気がつくんです。傷を作ってから、痛みがわかるんです」
「先輩、それはっ!」
 俺は佐祐理先輩の手首に残る白い痕思い返した。
 いつも明るく、優しく、みんなに好かれる先輩の、消えない痕。
 自分を責めて作ったその痕は、佐祐理先輩が本当に大切なものを持っていた証。
 そして、先輩の頭にある痕。
 舞の力が産んだ魔物の爪痕。
 佐祐理先輩の命を奪いかけたその力が、刻んだ痕。
「いいんです、今度はなくさなかったから。大切な人を、なくさなかったから」

 階段を上りきると、懐かしくも見慣れた扉。
 冷たいドアノブを回すと、澄んだ空気が入り込んでくる。
 白い月明かり、蒼い闇、湿りを帯びた風。
 そして…もう一人の、月の女神がこちらを振り向く。ぬばたまの髪を揺らして。
「…二人とも、遅い」
「遅いって、いったい何の用で呼んだんだよ?」
 足下の水たまりを避けながら、俺も佐祐理先輩も舞の隣へと近づく。
「…虹が出るかと思ったから」
「虹? 夜に? あの、月の周りに丸くかかる虹じゃなくて?」
「舞が見たいのは、月虹ですね。外国でも、条件が揃わないと見られないと言われてる、幻とも呼ばれる」
 すかさず、佐祐理先輩が何下にフォローを入れてくれる。
「…月虹見たら、願いが叶うって聞いた。だから3人で見ようと思って」
 湿気を含んだ風に、長い髪を揺らす舞。
 照れたような表情は、昔の舞とは明らかに変わってきていることを教えてくれる。
「でも、雨は確かに降ったけど、虹が出るかどうかはわからないんじゃないか?」
「…そうでしょうか?」
 帰ることを提案しようとした俺の言葉を遮ったのは、佐祐理先輩だった。
「虹は、出る」
 まるで何かを確信したかのように、舞も空を見上げた。
 
 風が吹く。
 空を覆っていた雲が、急速に流れていく。
 月の光が広がり…。
「…ああ、そうか。そうだったな」

 このくらいの奇跡なら、いつでも起こせたんだ。
 俺達3人がいるなら。

「…帰ろう」
「帰りましょう」
 舞と佐祐理先輩が、俺の手を取った。
 二人の女神の笑顔の向こうで、夜の虹は大きく空に架かっていた。