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北川 潤


 何がなんだかわからなかった。
 手に残った痣が、その日あった出来事が嘘じゃないとオレに教える。
 …そんな痕は、消えて欲しいと願うほどに、なかなか消えてはくれなかった。

 香里に呼び出されたはずの教室で、相沢とおかしな事になって以来、不思議なほど何も変わらない日々が続いた。
 変わったことと言えば、時たまあの時のことをオレが思い出すだけ。
 オレよりもしっかりした身体が、オレを机の上に押し倒して、押さえつけて。
 いつも冗談ばかり出ていた口から、熱い吐息が漏れて胸板を熱くして。
 そして…オレの………。

 ……思考停止。
 ダメだ、こんな事思い出したらっ。

 ……思考停止が遅れると、オレの身体がおかしくなる。
 反応するはずのない場所が、どういうわけだか反応する。
「オレ……おかしいよなぁ……」
 熱を持った自分の身体を冷ますため、屋上の手すりにもたれた。
 風は冷たく、肌が痛かったが、今はそれが心地よかった。

「北川君、最近ヘンだよ」
 学食の帰り道、珍しく水瀬にいたいところを突かれてしまった。
 水瀬が気付いてるって事は、美坂も気がついてるって事だろうな…。
「今日、部活無いから一緒に帰ろ?」
「だって、お前には相沢がいるんじゃないのか?」
 相沢、と名前を呼ぶだけで声が裏返りそうになるのを何とかごまかしながら、いつも通りを装う。
「祐一は今日は学級当番だよ。朝から香里と一緒に黒板消していたよ」
 一瞬絶句した。確かオレは今日、二人が黒板を消している前を通っている。が、オレの頭はその時真っ白で、何にも覚えてやしない。
「だから、先に帰れって言われちゃったんだよ」
「つまり、一人で帰るのはつまらないんだな」
 水瀬はちょっと恥ずかしそうに下を向いた。
「だって…百花屋に行きたかったんだけど、一人じゃ寂しかったんだもん」
「……もしかして、イチゴサンデー?」
 水瀬が嬉しそうにコクリと首を振る。
「それで、おまけにオレのおごりだったりするのか?」
 これまた元気に、水瀬が首を振る。
「わかった、じゃあ、行こうか」

 相沢はバカだな、とつくづく思う。
 イチゴサンデーをそりゃもう美味しそうに食べる水瀬は、欲目抜きでかわいいと思う。 実際、水瀬の人気はクラスどころか学校単位でなかなか高い。
 美坂も眉目秀麗、水瀬とのコンビは歩くだけで男達にあこがれの溜息をそこここにつかせる。
 なのに、この水瀬が側にいながら、俺のことを…好きだなんて…どう考えても、バカだ。「相沢って、バカだな」
「祐一はバカじゃないよ。祐一は自分を口に出して言うのが下手なだけだよ」
 水瀬は上に乗ってるイチゴを一口に食べながら答える。
 もちろん、2杯目だ。俺が全部奢るといったら喜んでいっぺんに3杯頼もうとしたから順番に頼むようにさせたが、この調子なら全部一緒に頼んでも変わらなかったような気がしている。
 相沢にも水瀬はこの調子なのかな、と思うと、少しだけ相沢に同情する。
「祐一はね、昔ね、とても悲しいことがあったんだよ」
 珍しい、相沢…アイツの過去の話に、オレは耳を傾けた。
「祐一はね、とっても悲しいことがあったんだよ。ずっと昔、7年前に」
「悲しい事って、どんなことだ?」
 水瀬は少し考え込むような仕草をすると、悲しそうに首を横に振った。
「わかんない。だけど、とても悲しいことだったんだよ。その時私、祐一に好きだっていったんだけど…」
 オレはいつの間にか息をのんでいた。水瀬が相沢に告白…たとえ7年前の話だとしても、充分興味をそそられる話だ。
「ふられちゃった。でも、祐一はその時のことを覚えていないの。覚えていられないほど辛かったんだと思うよ」
 水瀬がふられた…その一言に、なぜだか安堵する自分が居た。

 その後は、しばらく世間話が続いた。
 そしてちょっとだけ、話をしてみる気が起きた。多分水瀬なら、何が起きたか気がつかないだろう。
「なぁ、いきなり会って数週間のヤツに告白されたら、水瀬ならどうする?」
「会って数週間?」
 オレは頷いた。冗談めかして言ったオレの言葉に、水瀬は真剣に考えている。
「好きな人になら、告白されたら嬉しいよ」
「好きな人って、会って数週間だぞ。そのくらいで好きになれるのか?」
 水瀬は当然、とばかりに首を縦に振った。
「好きって気持ちは、時間とかは関係ないと思うよ。好きになったら、それが好きなんだよ」
 珍しく、水瀬のセリフが説得力を持ってオレに訴えかけてきた。
「会った時間が短くても、ずっと離れていても、好きって気持ちは、好きなんだよ」
 まともに聞くと意味が分からない言葉だ。だけど、今のオレの心には、その言葉がしみるように吸い込まれる。
「じゃあ、どこで自分が相手を好きか嫌いか見分けるんだ?」
 オレは続けて尋ねていた。
「それは…側にいてイヤかどうか…じゃないかなぁ」
 流石に頼りなげになった水瀬の返事が、オレの中に何かを残した。
 側にいてイヤかどうか…押し倒されて、誰よりも近付いて、オレは相沢がイヤだったか…。
 答は、NOだ。
 イヤじゃ、無かった。
 恐くはあったけど、それほどまでに近寄られて、オレは相沢をイヤだと思わなかったんだ。

 水瀬と別れた後、ふらふらと足の向くままに歩いていると、学校へたどり着いてしまった。
 冬の日は落ちて、もうとっくに暗くなった校舎。
 人気のない校舎。
 誰もいないはずのその校舎から、アイツは出てきた。
「…北川?」
「……相沢……」
 オレは、知らないうちに学校へ来ていた。
 相沢と初めて出会った、相沢と初めて肌を重ねた、相沢の居る学校へ来ていたんだ。

「北川…どうして学校へ?」
 俺達は学校を出て、公園に来ていた。ライトアップされた噴水は、水音を立てながら何度も吹き上がる。
「…なんだか、真っ直ぐ家に帰る気になれなくて、気がついたら学校へ着いていた。相沢こそ、何でまだ学校にいたんだ?」
 噴水が反射した光が、相沢の横顔を照らす。
「お前のことを考えながら教室にいたら…俺も帰るのが遅れたんだ」
 相沢は、ずっと前を向いたまましゃべる。オレが盗み見をしていることを、知ってか知らずか。
「北川、俺は嬉しかった。あんな事を無理矢理した俺に、まだ話しかけてくれるのが嬉しかった」
 その一言に俺の耳が熱くなるのを感じた。そんなときに限って、急に相沢は俺の方を向く。
「そして、今日はもう会えないだろうと思っていたときに、また会えたのが嬉しかった。普通なら会えないはずなのに、会えたのが嬉しかった」
 相沢の言葉は淀みが無く、相沢の眼差しは真っ直ぐだった。
 オレは、そんな相沢に何を言って良いか、わからなくなって来ていた。
 ただ、ただオレの心の中には……。
「好き、なんだ…」
 一言だけ、口から漏れた言葉。
 相沢の目が丸くなり、そしてすぐに相沢の腕がオレを抱きしめた。
「北川、今の言葉は、お前がオレに対して言ったんだよな?」
 腕に力を込めて、相沢が聞き返す。相沢の腕の中は暖かく、心地よかった。
「そう、だよ。相沢…」
 相沢の唇が、オレの首筋を這った。ゾクリと身体をかける感触に、思わず声が漏れる。「北川…俺、止められないぞ…良いんだな?」
「いい…よ…相沢…」
 言葉が言い終わる前に、相沢はオレをベンチに押し倒した。
 相沢の重み、相沢がオレの身体に指を這わせるたびに身体をかける感触、相沢の吐息。それらすべてが、オレには心地の良い物だった。
 触れ合った指先が熱くて、解け合うような感覚がする。
 はだけた肌に冷風が当たらないよう、気を使ってくれるのがわかって、嬉しかった。
 相沢の愛撫はすべて優しく、オレを感じさせる為だけにそうしてくれているのが伝わる。 そしてその吐息の熱さは、オレを大事にしようとしてくれているのを教えてくれる。
 すべての仕草に、相沢の想いが詰まっているように感じる。
「好きだ、北川…」
「……潤、で良いよ、祐一……」
 相沢…祐一の目が、本当に間近でオレを見つめる。その目の中で、噴水の光が煌めく。
「潤…」
 祐一が、心地よかった。
 祐一の身体が、心地よかった。
 そして、触れ合う肌から伝わる温もりが、愛おしかった。

 オレは、祐一が好きだ。
 そして、祐一も俺を好きでいてくれている。
 言葉にしなくても、指先から伝わる暖かさが教えてくれる。
 …コイツが、オレの大切な人だと。

 冬ただ中の、深夜の公園は寒かったけど、身体は熱かった。
 重なる身体の暖かさの中で、俺達が同じ思いを抱くことが出来たことを、オレは素直に感謝した。…今まで信じなかった神様にそして……。
 オレを見てくれた裕一に。

 雪が降っていた道に、今は桜の花びらが散る。
 どちらも、地上に舞い降りるスピードは一緒なのだと、どこかで聞いた。
 桜の花びらの下、オレは歩く。
 アイツと、ずっと。