彼は白い部屋で、たった一人だった。
レースのカーテンからこぼれる日差しは彼を白く浮き上がらせて、腰掛けている清潔なベットカバーも光を反射して白く輝いていた。
柔らかい色の壁紙も、木目の勉強机も、白く輝くその部屋。
まるで病室のようなその部屋で、彼は、私を空虚な瞳に写した。
ずっと好きだった。
無理だろうなと考えたこともあった。
あこがれの月島さん…月島裕也さんに交際を申し込んだ日のことは、今でも覚えている。
自分が踏んだ落ち葉の音にさえ怯えるほど、何もかもが恐かった。
小春日和の日差しの中で、いつも通りに優しげな瞳で本を読んでいた月島さんが、その時だけは「恐い」と思った。
そう、「恐い」と思ったのは、その時だけだった。
初めて、あこがれの…大好きな月島さんの腕の中に抱かれたときは、何も恐くなかった。 この人は決して、私を傷つけたりしない…。そんな自信があった。
思った通り、月島さんは私を大事にしてくれた。
なのに、どうしてこんな日が来てしまうのだろう。
白い、白い部屋。
「なぜ…来た?」
冷たい言葉が、愛しい人の口からこぼれる。
「あなたに会いたいって…思うことは、いけないこと?」
何かが崩れそうになっている、それを感じながら、いつもの調子で話しかけようとする。
自分の言葉の語尾が、震えるのを感じながら。
「明日、会えるだろう…」
同じ表情、同じ口調。
虚ろな瞳に、私が写っている。
「毎日、会いたいと思ったの…。あなたに、会いたかったの」
「会いたいのは、俺ではなく身体に、だろ」
ふん、と、鼻先で笑われて、私の身体が熱くなった。
「違う! 私は会いたかったの! あなたに!!」
違う、違うと、同じ言葉が頭に木霊する。
私は会いたかった。会って感じたかった。
月島さんが、私を少しでも大切だと思っていると。
そうしていないと、…自分の中の自信が、消えそうだったから。
信じていたものを消したくなかったから。
「俺と会って、どうしたかった? 身体を重ねたいだけだろう? 快楽が欲しいだけだろう」
「違う! そうじゃない、違うの!」
違う、チガウ…、また同じ言葉を繰り返す。
「…壊れた蓄音機のようだな。本当に欲しいものは何か、思い出させてやるよ」
背筋を駆け上がる悪寒、その直後の脳への衝撃。
私はそれを何度も味わってきている。
…電波。
彼の持つ、力。彼だけが使う、力。
人を、私を狂わせる力。
「止めて! やめてっ!」
「今度は止めて、か。やっぱり壊れた蓄音機だな。正直に言えばいい、これが好きなんだろう? 電波がもたらす快楽が」
鼓動が早くなる。血液が動脈を流れていく感触が、はっきりと感じられる。
熱くなる…、身体が、肢体が。
自分の意志ではなく、操られて身体が動く。
「あ…いや…ぁ…」
虚ろな瞳。
そのままの瞳で、彼は私を見下ろす。
心の中で、何かが崩れようとするのを押さえながら、体の中で暴れる血液を何とか落ち着けようと努力した。
「やめ…て…月し…ま…」
今まで何度も使われ、抗えなかった力。
いいえ、抗わなかった。
相手が、月島さんだったから。
月島さんの腕の中でなら、自分を侵す力も、恐くなかったから。
他の女の子に力を使っても、記憶は残していない。
私にだけは、正気を残していてくれていた。
体に自由はなくとも、心は自由にしてくれているのだと、信じていたから。
もしくは、信じようとしていた、から。
「望みを、叶えてあげようと言うんだよ? 止めて欲しいなんて、思っていないだろう? せっかく正気でいるんだから、嘘なんて言わないでくれよ」
小さな音を軋ませて、彼はベットから立ち上がった。
そのとき、彼の手の中から白い、小さい物が落ちるのが見えた。
白くて、小さい、少しレースのついた布地。女性物の下着。
…見覚えがあった。
春の身体測定で、その下着を身につけている人がいたのを、覚えている。
瑞穂と、『ああいうのも可愛いね』と囁いた覚えが。
その下着の主は…。
「瑠…璃子…ちゃん…の、下着…?」
彼の腕が、ビクリと震えた。
空虚だった彼の瞳に、怒りの色が浮き上がる。
「なぜ、知ってる…・お前が!」
その言葉と同時に、自分の脳を走る、焼け付くような細かい衝撃が強くなる。
「る…り…どっ!」
瑠璃子ちゃんの下着をどうして? そう口にしようとするけれど、衝撃が強すぎて言葉にならない。
脳の神経が焼き切れるかと思うほど、頭に激痛が走る。
いつも使われるより、大量の力を使われているのがわかる。
どうして?
どうしてそんなに力を使うの?
「瑠璃子を、汚すことは許さない。俺だけの、俺だけの瑠璃子を」
言葉にならない問いかけは、すぐに答えが出た。
私を、敵だと思っている。
瑠璃子、瑠璃子と実の妹の名前を繰り返す彼は、すでに尋常でなかった。
尋常でなくなるほどに、彼は一人の女性を、想っている。
…身体を走る痛みよりも、その事実が与える痛みの方が、辛いと感じた。
その痛みが、いつもより長く私の心を現実に引き止める。
混乱する意識の中で、色々なことが解けていく。
時たま、思い詰めた表情をしていた月島さん。
少し目を離すと、どこかへ消えてしまいそうな儚げな横顔。
何かが欠けてしまったかのような、虚ろな眼差し。
満たされない物を奪おうとするかのような、毎晩の情事。
それらすべては、実の妹に抱いた感情がさせていたから、彼は満たされなかったんだ。
想う相手に、同じ想いを抱いて貰えないから。
想いが、通わないから。
…今の、私のように。
痛くて痛くて痛くて、辛くて辛くて、それでも抱かずにいられない想いが、彼の心を軋ませるほどに苦しめていたんだ。
「いっしょ…だよ…」
しびれた舌先を、かろうじて動かす。
もう、電波の力は私の身体のすべてを乗っ取ろうとしていた。
身体だけでなく、心も乗っ取られるも知れない。
それでも、もう良いと、今は思えた。
彼のすることは、恐くない。
彼が自分と同じに、届かない想いが付ける心の傷の痛みに泣いているように見える。
恐くない。
自分の想いが届かない痛みが心を傷つけるけど、恐くない。
「わたし、いっしょだか…っ」
近付いてきていた彼の手を、掴む。
少し冷たい手は、それでも人の温もりを保っていた。
「そばに、いる、から」
私の顔が笑顔であることを祈りながら、言葉を紡いだ。
それが、私の、精一杯だった。
彼は暗い部屋で、たった一人だった。
薄ら寒く広いベットは、小さなその少年には世界すべてだった。
俯いて、じっとしてる少年。
少年が私の大事な人だと、すぐにわかった。
怯えて、震える。
温もりを与えてくれる相手を、狭くて果てのない世界で、待っている。
柔らかなカーブを描く頬に、一筋の雫が伝う。
「泣かないで」
私は手を差し伸べた。
「私が、いるから。同じ所に、ずっといるから」
少年が顔を上げる。
潤んだ瞳が、私を捉える。
「どうして抗わない!? このままだとお前の精神が壊れるぞ?」
どこかで声が聞こえる。
かまわず、私は手を伸ばす。
そこに、彼がいるから。
「香奈子? 壊れるつもりなのか!?」
彼の声が聞こえる。
私の手は、ゆっくりと頬へ近付く。
見上げる瞳から、こぼれ続ける雫を止めるために。
「香奈子? 香奈子!」
私は少し、安心した。
彼が、私の名前を呼んでくれている。
私を、呼んでくれている。
流れ続ける涙の雫が、私の爪先に触れる。
「香奈子っ!」
恐くない。
あなたと二人なら。
2度と戻れなくとも。
触れた頬は暖かかった。
初めて抱かれた、腕の中のように。
初めて好きになった、彼の笑顔のように。
「香奈子っ!!」
その声が、最後だった。
闇の中への転落。
軽くなっていく心。
儚げな温もり。
そして…………。
心の壊れる音を、聞いた。