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その声に、その言葉に呼応するように、床に描かれた文様が薄く光を放つ。 そこにトリックは存在しない。 ただあるのは、円形の文様と、薄暗い部屋と、得も言われぬ匂いの香と…。 艶やかな黒髪の少女。 正直、その場を見たときには目を見張った。あまりにもでたらめな文様は、なぜか強力な魔法陣としての役割を果たし、少女の口から漏れるこれまたでたらめな呪文に呼応していた。 一部分を見ていけば確かに正しいものなのに、幾つもの種類の文様を重ねているその魔法陣に、あっさりと呼び出されてしまった自分に腹も立ってきた。 魔法陣と、呪文とに乗せられているのは「上位の魔王の召喚」。 それを考えれば、上位も上位の自分が呼び出されるのは当然なのだが…。 目の前に立つ東洋の少女にこうも簡単に呼び出されては、気が抜けて仕方がない。 が、とりあえずは。 「私を呼ぶのはあなたですか」 小さく頷く少女。 「私の名を、正しく呼ぶことが出来たならあなたの望みに応えましょう」 もう一度頷く少女。私の名前を発音できる者など、人間では不可能なのに。 「では、私の名前を呼んでください」 気まぐれのつもりで言った自分の言葉に、後悔するまでにそう時間はかからなかった。 少女の声は凛と澄んで、よどみなく発音不可能なはずの私の名前を私の耳へ届ける。身体の力が足下の方へと抜ける感触と、自分の身体と世界との境界が急激に確立されていく感触。 人間で言うところの「血の気が引く」の言葉を知ったような気がした。 小首を傾げる少女。 「いいえ、確かにそれが私の名前です。これから私は、あなたに付き従う者となります。どうぞ、あなたの名前を」 私がそういうと、少女はもう一度頷いて、自分の名前を囁いた。 「来栖川、芹香」 そのときから私は、その少女に付き従っている。 |
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が、それは私以外の我ら種族の話。私はさほどそう言ったことに固執するつもりはない。 だが、自尊心くらいは持っているつもりだ。 …と、前振りはこの位にして。 私が何を言いたいかというと、今受けている屈辱に非常に立腹していると言うことである。 襟首を捕まえて、高々と持ち上げられる。 眼前には顔。私の顔の４倍はある顔。壮年に近い男性の。 見目麗しくない顔。 麗しくない顔がしかめっ面になっているのだから、なお美しくない。 「んん〜」 不機嫌そうな顔で見られると、こちらも不機嫌になってくる。 ましてや、首の辺りが引っ張られて辛い。 「このような不潔なものが屋敷内を彷徨くのは、来栖川の家が汚れる」 勝手なことを言ってくれる。 私が居ることは、この屋敷の歴史にとっては偉大であるはずが、そうとも知らずに。 「…ふむ」 何かを思いついたように、だが眼差しだけは不機嫌そうなままで私を床に下ろす。 ……襟首を掴んだままで。 「おい。マルチとセリオ、居るか？」 白髪を撫でつけた頭を振り仰ぎ、後に控える身長の違う二人のメイドに声をかける。 「はい、何でしょう」 「…どうぞご用をお言いつけください」 人なつこい笑顔の少々背丈が標準以下の少女と、落ち着きのある少女。 人間なら耳があるべき場所に金属が見える。 他には、私だから判るのだが、この者達からは生気を感じない。 ホムンクルスの一種のか。 「コイツを」 言葉と同時に私を持ち上げて繰り回す。 「風呂に入れて、お嬢様が抱くにふさわしいようにしてやってくれ」 言葉と同時に、勢いをつけて振り飛ばす。 でも、慌てずに身体をひねり着地体勢をとる私を、 細い腕が受け止める。 「ネコさん、大丈夫ですか？」 「了解しました」 可憐な少女に抱かれて、ようやく私は自分の置かれた状況に満足した。 そうして、気が付いたときには湯気の溢れる広い浴場、水着に似た服で、少女達に囲まれていた。 「はーい、シャンプーですよ〜」 背の低い方…マルチと呼ばれる少女は、濡れて毛皮がぴったりと皮膚に張りついている私に、手に取った液体洗剤を近づける。 「マルチさん、人間用のシャンプーは、ネコの身体には刺激が強すぎます」 「ええっ、じゃあ何を使うんですか？」 「ネコ用シャンプーが市販されています」 別にどの洗剤を使われようと、私の身体に害が及ぶことはない。 それしきのことに害が及ぶ身体では最上級者の名が廃ってしまう。 が、この少女らに身を任せるのは心配ではある。 湯で温まった体は冷え、勝手に震えが起こる。 「では、ネコさん用のシャンプーを買ってきますね」 「いえ、人間用のシャンプーでも代用はできるようです」 落ち着いた物腰の少女…セリオと呼ばれる方は、取っ手付きの手桶に湯を組むと、その中に先程の洗剤を垂らした。 「さすがセリオさんです、物知りですねぇ」 「この方法は、あまり良い物ではないのですが仕方ありません」 良い方法でないと知っていて、なお使うのか…。 それでも、このまま震えているのは勘弁して貰いたい。 「では、折角の機会ですから、特殊な洗い方を練習してみましょう」 セリオが肩紐に手をかけて、水着を下ろす。 湯気では隠しきれない張りのある胸があらわになり、括れたウェストもさらされる。 綺麗なラインを描く足から布地を引き抜くと、手桶の液体をかき混ぜ、泡立たせる。 「噂に聞きました、その方法。セリオさんは出来るんですね」 「いいえ、実際に行うのは初めてです。マルチさんもやってみませんか？」 「はいぃ、やってみます」 頬を少し上気させて、マルチも水着を脱ぐ。 両肩から一気に肩紐をずらし、ゆっくりと腕を抜く。 突っかかりが少ないためか、するりと胴体が現れる。 小さいながらも隆起している胸は、人工の物と思えない。 座り込んで両足から水着を引き抜くと、セリオに倣って桶の中の泡をすくい、自分の胸に擦り付ける。 「すべすべしますぅ…」 「薄めてあるので、実際の液体洗剤などとは勝手がいささか変わりますが…」 少女達があられもない姿で、身体に泡をまとわりつかせる。 人間の健康な男子なら、欲情もするだろうこの光景は、私にとっては見目良い物でしかない。 「では、失礼します」 私の毛並みにも液体をつけ、軽く泡立てる。 全身くまなく撫でられているようで、非常に心地よい。 「そろそろですねぇ」 「はい、では私から」 セリオの腕が私を抱きかかえる。 胸の谷間に私の身体を挟み込み、背中と側面を柔肌で擦る。 私の身体は固定させたまま、リズミカルに胸を上下させる。 毛皮越しになめらかな感触が伝わってくる。 抱きとめる手が腹部の方も擦り上げ、とても心地よい。 「セリオさん上手ですぅ〜」 セリオはそう言うマルチに私を預ける。身体が反転して、セリオと向き合うと、セリオの胸に大量の泡がついている。 抱きとめると、マルチも同じように私の身体を胸にこすりつける。 が、セリオほどは上手く行かず、少々危なっかしい。 危なげながらも、一生懸命さは伝わってくる。 滑りそうになりながら大事に抱きかかえてくれる腕に、一所懸命さが感じられる。 「はぅぅ、毛皮の感触がぁ」 頬を紅潮させながら、マルチがもじもじし出す。 感性まで人間に近いようだ。 麗しい少女に身体で洗って貰う、その行為に優越感と満足感が満たされていく。 まさに、私の格にふさわしい扱われ方だ。 だが、私が幸福感に浸るための時間は短かった。 「そろそろ、洗い流しても良いでしょう」 自分の身体についた泡をすでに流して、セリオは手桶に湯を満たす。 マルチの胸と私の背中の間を、ゆっくりと温かい湯が流れていく。 「あ、私もやりますね」 ある程度泡が流れたところで、私はセリオの腕の中に、マルチは手桶に新しくゆをなみなみと入れる。 「じゃ、いきます」 「あ、マルチさん！」 注意を促そうとしたセリオの言葉よりも早く、マルチの手桶は傾けられた……。 …私の頭の真上、身長の倍の高さから。 わかるだろうか、自分と同じ体積の水が見上げるような高さから落ちてくる恐怖感を。 それで死ぬことはないとわかっていても、良い気はしない。 更にネコの身体の構造は、耳が身体の外に向かって広がっているため、真上からかけられる水は、耳の中へと入ってしまう。 その痛みを、理解できるだろうか？ 「はわわぁ〜〜」 とっさにセリオが庇ってくれたおかげで、私の耳に入った水の量は少なかった。 「ごめんなさい、ネコさん」 懸命に謝るマルチ。 潤んだ大きな瞳からは、今にも雫が溢れんばかりだ。 「大丈夫です。これからお湯は首元から静かにかけて上げましょうね」 首を上下に何度も振ると、ようやく落ち着いたのか、体を拭くタオルを持ってきた。 しかし、私は安心していなかった。 「では、払拭します」 濡れて滴る雫を手であらかた絞り、受け取ったタオルで私の身体を上から順に毛並みに合わせて撫でるように拭き取る。 やはりセリオはその動きに安心感がある。 あらかた拭き取ったところで、またマルチが私の身体を拭き始める。 「今度は頑張ります」 「あ、マルチさん、その方法は」 またもや、マルチはやってくれた。 力一杯、毛並みも頭も尻尾もまとめてタオルで擦られ、もまれる。 上下も方向もわからないほど、タオルの中で振り回される。 「らんらら〜〜ん」 明るい鼻歌が聞こえると同時に、私は悲痛な叫びを上げた。 …もちろん、ネコの鳴き方で。 「マルチさん、ネコの毛は人間の髪とは違います。もっと丁寧に扱う必要があるかと思われますが…」 「え？」 擦る手が止まった隙に、私は絡まったタオルから顔を出した。 「ごめんなさいでした…」 すっかり意気消沈したマルチの方を、優しくセリオが撫でた。 「マルチさんは学習型です。初めは上手に出来ませんが、いったん覚えれば私よりも物事をこなせるようになるはずです。 今は、学習期間なのですから気を落とさないで」 セリオの言葉にマルチは頷く。 あまり頷かれたくはないのだが、ネコという存在を維持しての、この二人からの脱出は不可能に思える。 浴室の外の脱衣室には鍵がかかり、窓はすべて閉まっている。 力を使えばいくらでも脱出できるのだが、我が主人に迷惑がかかることが目に見えているのでそれは避けたい。 「では、毛並みの乾燥です」 熱風を出す機械を手に取り、スイッチを入れる。 我が主人が使っていたのを見ているので、音はうるさいが害がない物だとわかっている。 「ドライヤーの音に慣れているようですね」 片手にブラシ、片手にドライヤーという装備で、セリオが近付く。 マルチは今回は、私を押さえる役らしい。 毛並みが急速に乾き、ほのかな匂いを漂わせる。 人間用の洗剤なので香料が入っているのだろう。その匂いは実際のネコには気に障るだろうが、私には心地よい。 「………」 「…マルチさん、やってみますか？」 「えっ、良いんですか？」 突然のセリオの言葉に、一番驚いたのはたぶん私だろう。 行程の大半は終わっているし、先程から失敗続きのマルチに仕上げを頼むのは心許ない。 「良いんです。今回はセバスチャン様から頂いた勉強の機会です」 見る見る明るく輝くマルチの顔を見ては、私も反対の意思表示をする気が失せる。 「はいっ！」 大きく返事をすると、マルチとセリオは役目を交代した。 セリオの腕に抱かれた私の毛並みを梳きながら、毛並みの方向に合わせて風を当てる。 風が熱くならぬように、自分の手首に風を当てて確かめ、距離を調節する。 「できましたぁっ！」 私の毛皮は完全に乾き、そうされている間私は特に不満を感じなかった。 先程までの調子でなら、もっと色々な目に遭うと心構えをしていたが、そう言ったことは特になかった。 「ええ。完璧です」 セリオの言葉に、マルチの表情が輝く。 「ありがとうございますぅ」 裸のままで抱き合う少女達に、私は心の中で拍手を送った。 「終わりました」 着替えた二人に抱かれて、再び見目麗しくない男の前に突き出された。 「おお、これで少しはマシになったな」 ふたたび首を掴んで持ち上げられる。先程までの少女達からの扱いとは違い、非常にいい加減である。 「また汚れたら二人とも頼むぞ」 「はい」 二人の声が重なった。 窓の枠へと前足をかけた途端、私の身体は宙へと持ち上げられた。 「お前にはまだ用がある」 にやりと不敵に笑うその顔に、嫌な予感を感じずには居られなかった。 「セバスチャぁ〜〜ン」 「お待たせしました、お嬢様」 恭しく一礼する、私の首を捕まえたままで。 大木の下、木漏れ日を受けて立つ少女を私は知っている。 来栖川綾香、我が主人の妹だ。 整った顔立ちは非常に似ているが、性格に関してはまったく方向性が違う。 興味を持っている分野も違うらしく、格闘技に長けているようだ。 煌めく中、黒い髪をかき上げる。額から流れた雫が宙に放たれ、光を受けて輝く。 「それ、姉さんのじゃないの？」「頑丈さと素早さは、ご注文の通りです」 「ふぅ〜ん」 不穏な会話を交わしながら、綾香は私を眺める。 「ま、いいわ」 なにやら良くない予感がよぎる。素早く辺りに目を巡らし、脱出経路を考える。 「じゃ、お願いするわ」 「はい」 一際嬉しそうに高い声をあげ、態度の違うこの男は私の手足を縛り上げた。 首を捕まえていない手で前足を押さえつけ、首を話して腰の後に隠していた紐で縛る。 同じように持ち手を替えて後ろ足も縛り逆さにする。 その間の一切の抵抗を、この男はかわしていた。 「はぁ〜い。じゃネコ君、かわいそうだけど、サンドバッグになってねっ。ちゃんと避けるのよっ」 「屍は拾っておく。汚れたらまたマルチとセリオに洗わせるから安心して逝ってこい」 にこやかな二つの顔。 その瞬間、私の心には一つの誓いが立てられた。 セバスチャン…。 我ら主神の目覚めは遥か未来だが、そのときまで生き延びさせ、本当の恐怖を味合わせてやる、と。 |
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「お、ひなたぼっこか。猫は良いなぁ」 何も知らないのんきな声が聞こえるが、それに相手する気は今はない。 「そういえば、こいつの名前は言いにくいんだよなぁ。確か、ナイアルトテプだっけ？」 窓に映る我が主の姿は、大きく首を横に振る。 やはり、人間には発音不可能だと確認できた私は悦に浸る。 「えっと…ニャルラトテップ？」 すこし考えるような表情をしたあと、今度は傾げながらも首を縦に振る。 「やっぱ、猫で良いかぁ。呼び方なんて」 非常に失礼なことを言われているが、我が主と決めた相手と同等のつもりで居るのが気に障るが、とりあえず見逃しておこう。 この人間と一緒にいることが、主の望みなのだから。 いつか、主が本当に声を出せなくなったときに、私はもと居た世界へと還り眠りにつくだろう。 そのときを考えれば、些細なことだ。 日差しが目に入ったのか、小さなベットの中で眠っていたお姫様が声を上げた。 そうっと覗きに行くと、見えているかどうか怪しい瞳で、私を見つめる。 その眼差しは、母親譲りのようだ。 そうして、小さな口が開く。 人間には、発音できない言葉。 …だがそれは、私の名前。 私が眠りに戻るのは、まだ先の話らしい。 |