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想いと奇跡と君のこと
〜プロローグ〜

 見上げる空。
 青く澄んで、遠く遠く高く。
 白い雲が流れ、形を変えて消える。
 その流れの中にいつか自分もとけて行くような錯覚を、弱い木漏れ日越しに感じていた。
 空気はまだ冷たいけれど、風さえなければ日溜まりの中は暖かい。寝間着のままでも、カーディガンを羽織れば病室を出ても看護婦さんに怒られない。

 風は凪いで。
 飛ぶ鳥の影も空の果てへと消えて。
 誰の声もかからない、誰も見ていない。
 このまま消えてしまうような孤独感が、仄かな甘さを抱いて誘う。
 いっそこのまま消えたら、自分はどうなるのだろう?

 風が近付く音が聞こえる。
 病棟の壁に当たって渦巻く風が、窮屈さを訴えるようにうなりを上げる。
 鳥は翼を広げ風を孕んで舞い上がる。
 あの鳥のように風を孕んだら、空へ飛べるだろうか?

 手にした文庫本を置いて、音のする方を向いて立ち上がる。
 ゆっくりと両手を広げて、一際大きなその風を待つ。
 でも…。
 風は、吹き抜けてしまう。心と体を残したまま。

「…あははーっ…。…佐祐理じゃ、やっぱり空へは飛べないんですね」

 孤独感を残して、風は去ってしまった。
 でも、風が残したものもあった。

「どいてーーーっ!」

 やや高い声の出所に気付いて振り仰いだ眼差しに入ったのは、黒い影と白い翼。
 それが自分へと迫って『落ちて』来ていると気が付いたときには、もう避けようもない状態だった。

「うぐぅ…痛いよぅ…」

 木の枝から不自然な体勢で落ちてきた少女は、鼻をさすりながら涙目で見上げた。

 そう、風が残していったものは。
 紙袋を抱いた、ダッフルコートに身を包んだ少女を一人。

 その少女は、月宮あゆと名乗った。



 冬の陽射しはすぐに傾く。
 時間の訪れは誰にでも平等で、それはどこでも同じ事だ。

「でさ、舞は何も言わないで出ていくから、慌てて追いかけてみれば、路地裏に入り込んでいくんだよ。
 何事かと見ていたらさ、子猫が鳴いていてさ。親猫も怪我であまり動けなくて、唸ることしか出来なくて」
「じゃあ、舞は猫の親子にあげようとして、お店でミルクを?」
「…ネコさん、お腹空いてないてた」
「気持ちはわかるけど、何も喫茶店で頼んだミルクをもって行かなくても良いだろうに」
「あははーっ、舞らしいです」

 もちろん、こんな会話を交わす三人にも、時間は同じように流れる。

 大きな病院の外科入院病棟、端に位置する個室には『倉田佐祐理』と書かれた名札がつけられている。
 その病室にあるベッド上で体を起こしている少女は、自分を見舞いに来てくれた二人と嬉しそうに話す。
 …それはここ数日繰り返された光景だ。
 見舞いに来た制服姿の男女は、ひとしきり笑うと明日の約束をして病室を後にする。
 男女、と言ったが笑うのは制服を着た男と、ベットの上でピンクの寝間着を着た少女だけだったが。
 だが、終始一緒にいて頷く姿を見る限り、もう一人の少女も好んでそうしていることが見て取れる。

「あ、お茶のおかわり、入れますね」

 男の方・相沢祐一がカップの中身をすするのを見て、ベットから少女が滑り降りようとした。
 が、祐一はその佐祐理の肩を軽く押さえた。

「佐祐理さんはいいよ、気を使わないで。本当は俺達が気を使わないといけない筈なんだし」
「いいんですよ、祐一さん。佐祐理ももう少し飲みたいと思っていましたし、舞もおかわり、欲しいでしょ?」

 大きな緑のリボンを揺らしてふり返った少女・佐祐理の言葉に、黒髪の少女はこっくりと頷く。

「だったら、舞が淹れればいいだろう。 な、舞?」

 祐一の言葉に、だが黒髪の少女は返事をしない。
 切れ長の眼差しをカップの中に落とし、黙っている。後ろで一つに束ねた長い髪が少し揺れ、形のいい眉が少し眉間に寄ったが、それ以上の動作はない。
 普通の少女がそんな表情をしていたら、もしくは彼女を知らない人が見れば、彼女が何を思っているかなど判らないだろう。
 だが、この少女・川澄舞は、たったこれだけの動作が全てだと知る人物になら、思案顔をしていることに気が付く。
 祐一は、気が付く側の人間だ。

「舞、なんだ? 何か都合の悪いことでもあるのか?」

 湯気も減ったカップには、夕焼けよりも濃い朱色の液体が僅かに残っている。
 仄かに漂う香りは、アッサムティー独特のさわやかさだ。

「…淹れ方がわからない」
「…すまない、俺も淹れられそうにない」

 病室に備え付けてある小さな食器棚に置かれたティーポットと英語で書かれた茶葉のカン、そして並ぶ砂時計に目をやって、祐一もギブアップの宣言をする。

「やっぱり佐祐理が淹れますね」

 口元を歪ませ狼狽える舞に笑顔を向け、佐祐理は完全にベッドから滑り降りて、ふかふかの毛の付いたスリッパに足先を入れた。

「佐祐理さん、何か羽織らないと寒いだろ?」

 止めるかわりにと祐一は、布団に乗っていたカーディガンをティースプーンを持つ佐祐理の肩にかける。
 窓からの陽射しを受けて暖かくなったカーディガンは、柔らかく佐祐理を包んだ。

「ありがとうございます、祐一さん」
「いや、見舞いに来ているはずなのに、なんだか気を使わせてばかりだな」
「佐祐理は舞と祐一さんの顔を毎日見られて、とても嬉しいですよ」

 流れるような動きでお茶の葉を入れ、お湯を注ぎ、軽くポットを揺らすとそばに砂時計を置く。
 やがて蒸らされた茶葉が再び室内に香り、カップにアッサムティーが注がれる。

「はい、どうぞーっ」

 元気の良い笑顔で、祐一にはストレート、舞には砂糖を添えて紅茶を差し出す。

「うん、美味しいよ。さすが佐祐理さんだな」
「…おいしい」

 満足の声に佐祐理の笑顔が一層明るさを増した。
 そしてまた始まるのだ、たわいもない日常の小さな話が。

 暮れゆく陽に帰る時間を急かされても、名残を残さないようにと。


 佐祐理は2週間ほど前に救急車でこの病院へかつぎ込まれた。
 夜の学校で倒れていた彼女は血まみれで、地域の救急病院の中でも一番大きなそこへと、救急隊員達はすぐさま運んだのだ。
 無線で連絡を受けた外科担当医は彼女の顔を見て驚いた、見知った顔だったからだ。
 外科担当医だけではなく、連絡を受けて駆けつけた院長も青ざめた。
 それもそのはず、地域でも有力者であり病院にも多少なりと援助をしてくれている相手の一人娘だったのだから。
 手術は始終、緊張が走った。
 原因不明の裂傷、大量の出血。
 的確な処置を施し、傷跡が残らないよう細胞一つに気を配りながらの縫合を終えると、担当医はその場に崩れたという。

 流れた血の多さと運ばれるまでにかかった時間を考えて、良くても後遺症、悪ければ植物人間となる可能性があると判断していた病院側は、すぐに意識を取り戻し後遺症の気配すらない彼女の『奇跡』を喜んだ。
 異様に早い回復にも、誰も疑問を挟まなかった。下手に挟んで折角の奇跡を手放すリスクは、誰も冒したくなかったのだ。

 佐祐理は外科病棟で一番良い個室に入れられ、手厚い看護の元回復していた。
 本当ならばとっくに退院してもいいくらいの回復だったが、運ばれた時の状態を考えて、念のために入院させられている。
 リハビリもしていたが、本当にリハビリが必要な人から見れば健常者その物だった。

 救急病院の中でも特に大きいそこは、もちろん重傷者が多く集まりやすい。
 そこにしかない器具、そこにしかいない名医、そこでしか扱えない患者、と。
 一刻を争う患者や重傷者のために、VIP扱いとはいえ健康な佐祐理の為に割かれる手は目に見えて減っていた。

 佐祐理は病院に良い思い出を持っていない。
 幼い弟を亡くした経験があるからだ。
 自分が守ろうと、自分が導こうと、…強く育てようと。佐祐理は弟に、そう思っていた
 想いに反して弟は、病の床で帰らぬ人となった。
 だが、今は病院に一人で居る。
 父もたまには見に来てくれる、仲の良い友人も二人だけだが毎日顔を出してくれる。でも、それらは一日の決まった時間だけのこと。
 いつからか、見上げる空の高さに、窓にはまったガラスの厚さに、佐祐理は外からの隔離を感じていた。

 雪によって清められた大気へとけてたら、自分はどうなるだろう?
 冷たくて凛とした風に変わったら、自分はどうなるだろう?
 悲しみは? 空しさは? どれほど時間を隔てても消えない、胸の痛みは?

 諦めと希望、どちらとも着かぬ想いで佐祐理は空を見上げていた。
 そう、今日も。


「ん? 舞が持ってきたのか? 随分汚れた人形だけど」

 窓際に設置されたテレビの上に、小さな人形が乗っていることに祐一が気付いた。
 言葉通り、くたびれた人形だ。泥の付いた片翼の天使で、笑う顔だけはやたらと明るい。
 笑顔だけなら佐祐理のそれと同じくらい明るいが、汚れが笑顔をくすませている。

「いいえ、預かり物なんですよーっ。可愛いから直せないかなって思って、佐祐理が預かっちゃいました」
「へぇ…佐祐理さんは優しいな」
「あははーっ、そんなことないですよ」

 差し入れのクッキーに手を伸ばした舞の横で、時計のオルゴールがなり出した。

「お、もう面会時間終わりか」
「…もっといたい…」
「舞の場合は、その箱のお菓子が無くなるまで居たいんだろう?」
「舞、また明日一緒に食べよう?」

 佐祐理の言葉に頷くと、舞はクッキーのカン製の蓋に、テープまでまき直す。

「まったく…」

 苦笑しながらも祐一は優しい眼差しで舞を見つめる。
 見舞いに来てくれるようになって、舞を見る祐一の眼差しが以前とは変わっていることに佐祐理は気が付いていた。
 佐祐理が居ない時間は短かったはずなのに、間違いなく二人には絆のような物が出来ていた。だが、それがどうやってできた物なのかは、佐祐理には知らされていない。
 二人が遠くなった気がして、佐祐理の胸に影が差し込む。

「じゃ、そろそろ失礼するよ。外もだいぶ暗いし」
「ええ、気をつけて帰ってくださいね」
「…佐祐理も」
「ありがとう、舞」
「じゃ、また明日も来るから」

 手を振って、二人の姿が扉の向こうに消えた。
 入れ違いにノックの後、やや恰幅のいい看護婦さんがドアを開けた。

「またお見舞い? とても仲が良いお友達ね」

 ベッドにテーブルをよせて開けたドアを固定すると、ワゴンから夕食の乗ったトレイを持ってくる。
 メインディッシュは鶏肉のホイル焼き、カロリーは控えめだが普通の食事と何らかわりがない。

「あと、頼まれた物はこれで良かったかしら」

 紙袋をトレイの横に置くと中身を取り出しながら看護婦は解説をする。

「これはぬいぐるみのクリーナー、汚れに吹きかけて乾いた布で拭けばいいらしいわよ。あと、白い布に綿とソーイングセット。あとは金色の針金だけど、ラッピング用ので大丈夫だったかしら?」
「はい、大丈夫だと思います。ありがとうございました」

 差し出されたレシートを見て、枕元の小銭入れから代金を渡す。

「いいえ、どういたしまして。でもその人形、いっそ作り直した方が早いんじゃないかしら」
「あははーっ。でも、預かり物ですから」
「それじゃ仕方ないわねぇ。手伝ってあげたいけど…」
「いえ、佐祐理一人で大丈夫ですよ」
「そう? そうね、じゃ、頑張ってね? 倉田さん」

 そう言うと、看護婦は扉を閉めて次の病室へと向かう。奥から配膳しているので、まだ夕食を待つ病室は多い。
 配膳もまた、看護婦の山ほどある仕事の一つだ。

 一人残された病室で、佐祐理は椅子に座った。
 肩からずれたカーティガンをかきあげて、ふと祐一にかけて貰ったときの感触を思い出す。
 大きな体が自分の体を支えるように包んで、ふわりとカーティガンが肩にかかる。
 祐一の両手は確かに自分の肩をそっと押さえた。…そう思い出すと、触れられた場所が心なしか暖かいような気がする。

 でも、祐一と舞の間に割って入ることはできないだろう。
 そして、佐祐理は舞が好きだ。舞の真っ直ぐな心が好きだ。
 舞が傷つくことは、もちろんしたくない。

 『でも』『だけど』、二つの言葉が繰り返し、答のでないまま消える。
 消えるが、それは『無くなった』わけではない。
 また何かのきっかけで、すぐに沸き上がる。
 沸き上がって、日ごとに勢いを増して佐祐理の心を焼く。

 だからかも知れない、佐祐理がその人形に心を惹かれたのは。

 明るい茶色の髪を肩口で揺らし、喋るたびに表情の変わる少女が人形の持ち主だ。
 あゆ、と名乗った少女は、たい焼きの紙袋と一緒に泥だらけの人形を抱えていた。

『これはね、願いを叶えてくれる人形なんだよ』

 あゆの言葉が、佐祐理の耳に残っている。

『でも、汚れてるからかなぁ…。願い事、叶わなかったんだよ』

『きれいになっても、ボクはもう、願い事がないから…』

『え? きれいにしてくれるの? ありがとう!』

 願いを叶えて欲しいわけでもないし、それで叶えて欲しい願いも思いつかなかったが、佐祐理は人形の修理を引き受けた。
 汚れていながら笑い続けその身を削る人形に、もしかしたら何かを感じたのかも知れない。
 いずれにせよ、佐祐理は人形を手に取った。

 服を脱がせ、部屋についている手洗いで洗う。あたらしい服を縫うつもりだが、そのまま捨てるのも気が引けた。
 大きな汚れを落としてから、落としきれない汚れにクリーナーを使う。
 縫い直す部分は多く、翼も一つ作らなければならなかったし、綿も詰め直す必要があった。
 だが、佐祐理の手の中で少しずつ、人形はきれいになっていった。

 人形がきれいになって、願うことがあるなら?

 肩に残る暖かさを思い出しながら、佐祐理は人形の顔を拭いた。



                               …続く…