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またたき


 月は十六夜、明るく照らすその光だけが見送りだった。

 あしびきの長い坂道、後には荷を積んだ車と荷物を背負った人足が数名。
 勅命を受けて任地へ赴くには、いささか寂しい限りの道連れだけで、私はその夜その道を越えねばならなかった。

 宮廷にあっては地の華、人にあっては天の光。それが、私の仕えたお方の呼ばれ名。
 誰よりも優しく美しく誇り高く、そして悲しかった。
 まだ年端も行かぬのに、将来帝の寵愛を受けるだろうとの声も高く、だからこそ仕える我が身も誇らしかった。
「裏葉よ」
 仕える者として、名を直に呼んで貰えることは嬉しかった。
 その日も、呼ばれたことを嬉しく、背中に注がれる羨望と嫉妬の眼差しも堂々と受け止めながら、長い廊下を衣擦れの音を立てながら急いだ。
「裏葉よ」
「はい」
 だから、私は信じられなかった。
「この館を出なさい」
 信じ崇めた相手からの、突然の別れの言葉を。


 …夜の闇は、美しかった黒髪を思い出させる。
 あの時、その前髪から覗く双眸には、流れる光が輝いていた。
「何故に、わらわはこの身に生を授かったのでしょう」
 そう言葉を続ける瞳は、潤み赤らんでいた。
「どうか、わたくしめにも判るよう、お話くださいませ」
 私の嘆願に、着物の袖を濡らしながら我が主が語ってくれた話は、良くあると言えば良くある、権力争いに関する話だった。
 権力は朝廷の主・帝にある。
 …そんな言葉は建前だと、気が付かないのは当の帝だけといわれている。
 誰もが帝に取り入り、操り、自分の好きようにと願う。…我が主の祖父などは、特にここ数年で権力を伸ばした方、今まで帝に親密であった他の勢力には目障りな存在でもある。
 もちろん、祖父側は他勢力など気にしていない。なぜなら、帝が東の方に我が主を望まれているから。
 権力争いの中で若くしてその席に就かさせられた帝にとって、清らな我が主はまさに、希望その物に見えたのかも知れない。
 側室は迎えても、誰もが望む一番の席は空席のまま。そこに座る人が誰なのか、聞くまでもなく誰もが知っている。
 それを阻めるほどの人が、存在しないことも。
 …我が主は、それほどまでに美しい方だった。美しさに並ぶほどの、繊細な心を持つ方だった。
 月は満ち、艶やかさをも備えるようになった我が主には、間もなく書状が届くだろう。そして、帝の側のどの女御もいただいたことのない、立派な水引の花を枕元に飾る日が来るはずである。
 その日を、その朝を、私は心より楽しみに待っていたのに…。

「許してください、裏葉よ。わらわの力の不足を」
 こぼれ溢れ、流れ続けるその雫は、真珠のように淡く光を反射していた。
 …地には、本当にたくさんの争いが満ちていた。
 その争いは、宮廷の中にも。勝敗が決したと思われていた勢力争いを、それでも良しとしない者はいた。
 愛娘を、孫娘を、ただ我が身我が血族のためにのみ道具として帝の側へ送り込んだ者が、唯一人の娘を差し出すことで自分より高く強い権力を持つことになる人物を、激しく憎んだ。
 その憎みは我が主に向けられ、主に仕える総ての者に向けられた。
 幾人もの女房が襲われ、主自身も狙われた。
 よく笑いよく光を浴びて、我ら仕える者総てに心を砕いてくれたその顔は日に日に陰り、愁いを帯びていった。
 どれほど護衛をつけても、この館にいる者は狙われるだろう。そして主は、その様な権力争いに世の希望を無くしていた。
「裏葉は、いついつまでもお側にいます、どうか気を強くお持ちください」
 私の言葉に、小さく首を振ると、赤い唇からか細い声で答えた。
「わらわは、尼寺に行きます」
 ながいその髪が、さらりと揺れた。
「もう、手筈は整えました。出家された叔母様に手紙を出したところ、迎え入れてくださるとのことです」
「しかし…っ! お気が早すぎます。もうしばらく待てば帝からのお声がかかります、そうなればもう、お心を痛めるようなことも起こりません!」
 ゆっくりと、もう一度、頭を振られた。
「わらわはもう、仕えてくれる者が苦しむ様を見とう無いのです。
 わらわの見た目にどれほどの価値があるのか、わらわのこの身にどれほどの価値があるのか、それはわらわの代わりに襲われた者とそれほど違うのか…。
 それらを考えて思いついたことは、仏の御許に、わらわの身を委ねることが一番良いのではないか、ということです」
 静かに語るその言葉に、私は何かを言おうとした。
 けれど、口からは息が漏れるだけで言葉は漏れず、伸ばした手は空を泳ぐだけ。

「裏葉よ。そなたは不思議とわらわの望むことを判ってくれました。そこで、お前に合うだろう次の館を、探していただいておきました。帝からの勅命です、受けてくださいますか?」
 自分のふがいなさに頭を垂れた私の目前に、白い包みが置かれた。
「任地は遠い山の中ではあるものの、仕える主は尊き方、働きがいはあるかと思います。
 わらわより幼いと伝え聞きますが、だからこそ仕事も多いでしょう。
 …行ってくれるますか、裏葉よ」
 優しく問われたその声に面を上げると、主は満足げに頷いて、自分の豊富な黒髪を片手に束ねた。
 反射した光に目を覆い、それと同時に何が起こるのかを悟った。
「いけませんっ!」
 私の声が終わらぬうちに、主の紅葉色の着物の、飛び立つ鳥の柄に黒い筋が幾本も舞い散った。

 我が主は、気高き人であった。
 慣れぬ装束に慣れぬ旅路、それでも一握りの護衛と共に旅立たれた。
 すぐに屋敷は騒然となったが、主が行かれた寺は帝のお祖母様が入られたところでもあり、もう入られた後となっては取り戻すこともできなくなっていた。
 私がいただいた書状を持って、旅の空へと出てから伝え聞いた話では、帝は遠い血縁の姫を遠い地方で見つけて正室に迎えたという。
 それは、とても華やかに着飾られた姫ではあったけれど、我が主の美しさには及ばなかった、とも聞いた。


 着いた場所は、予想していたよりはしっかりとした作りの社殿だった。
 仕える相手の話はもちろん、道中聞き及んでいる。
 巫女姫、あまつびと、翼を持ちし幻の種族の娘。どれも敬意と畏怖を含んで口から発せられる言葉が、その話には必ず出てきていた。
「…あなたは、あまり化粧はなさらないのですか」
 案内役として迎えに出た女御は、いぶかしげな顔で私の顔を覗く。
 …それはそうだろう、やはりこの社殿でも女房は唇に紅をひく。
「…お仕えする方は巫女姫、神の使いと聞きました。その様な方の前で口に偽の紅色をつけても、意味はないかと思いまして」
「…なる程、あなたなら神奈様のお側にふさわしいかも知れませんね。帝からの推薦も、人選違いではなかったということですか」
 その言葉に重なって、別の言葉が微かに聞こえる。

『都から来た者など、どうせ問題があってきたかと思ったのに。選ばれて来たのでは文句もつけられないではないか』

 どうしてか聞こえるその声に総て耳を傾けては、我が心が砕けてしまう。受け流す術は当の昔に身につけてはいるものの、やはりここも都と同じかと、溜息がこぼれる。
「どうかなさいましたか」
「いいえ、このような社殿に入るのは初めてのことなので」
「そう。後で案内しますから、そのときに大まかな作りを覚えておくと良いでしょう」
 今度は特に聞こえる声もなく、涼やかに真っ直ぐに廊下を歩いていく。
 顔を向けない程度に社殿を囲う板の外へ視線をやれば、暗く生い茂る木々が総てを囲い、押し隠しているように見える。
 開かれてきらびやかだった前の勤め先を思い返せば、この場所は貴人が住むにはいささか、いや、かなりの程度でうらぶれているようにも思えた。
 調度は確かに良い物を使っているし、建物の作りも住まう人の振る舞いもけっして悪くはないのに、なぜか籠もるような裏暗さがあった。

「さ、御前です。ここより先はおひとりで」
「ご一緒に行かれないのですか?」
「私は、他にも用事がありますから」
 口早に下がってしまわれ、私は一人きりになった。
 山奥の社殿としては広い部屋の中央に、品のいい屏風が置かれている。その向こうに、私の新しい主が居るのだろう。
 …しかし、このような広い部屋だというのに、どうして誰もいないのだろう?
 敷居のすぐ外には何人もの女官も居たのに、部屋に入った途端に人気が失せる。
「…近うよるがよい」
 主…神奈備命より、声がかかる。若いとは聞いていたものの、声の高さに少しだけ驚く。
「では…」
 頭を下げたまま、屏風の端の側でひれ伏す。
「この度、帝の命により…」
「よい、その様な堅苦しい挨拶など、聞き飽きた」
 人の口上を遮る貴人などとは、初めて聞いた。その、初めての相手の顔を、私はふり仰がずにはいられなかった。
 上等の陶磁よりも白い肌、子鹿のような黒くつぶらな瞳、春に咲く花かと思うような唇、それら総てはまさしく尊き方と呼ぶにふさわしい顔立ち。
 けれども、一本筋を通した眉、他との調和を考えないでひき結ばれた口元、そして何より、目の前の火鉢に被さるように暖をとっているために煤けた袖口。
 私は、自分の見たものを受け入れるのに手間取っていた。
 以前仕えていた姫は、見目にふさわしい教養と立ち居振る舞いを備え、どのようなときでも華やかさと可憐さを伴っていた。
 …今、眼前に座る少女は、見た目こそ美しいが、中身は何も考えていない女童でしかいない。生まれ持ったものだけで、光っている様なもの。
「今日から余の世話役だそうだな、名を何という?」
 言葉使いも、荒っぽい。
「裏葉、と申します」
「ほう、花の名前を持つ女官は多いが、葉だけを名に入れるのは珍しいな」
「葉を裏返すと、筋が見えます。その筋こそが、葉を葉であるようにさせる物です」
「ほう、ではそなたの名はものの本質を伝えるのだな。良い名だ」
 自分でも珍しいと思うほどに、その言葉に狼狽えてしまった。

『あなたの名は、ものの本当を知る言葉。あなたの側に、いつも本当があるように』

 遠い昔に別れることになった母親が、良くいてくれた言葉とほとんど同じ。
 人には聞こえないものが聞こえ、感じることのないものを感じる私に、何度も聞かせてくれた言葉。
 今まで我が名を聞いた何れも、言及しなかった言葉。

 私は、もう一度着物を正し、深く頭を下げた。
「今日より御身のために仕えます。どうぞ、宜しくお願い申し上げます」
「うむ。裏葉よ、これから我が身のためにその力を尽くして欲しい。こちらこそ、宜しく頼むぞ」
 凛と澄んだ瞳に、私が映った。
「では、さっそく」
 側についとよると、神奈のその両腕を火鉢から引き離した。
「うわっ、何をするっ!」
「お袖が汚れています、火鉢には被さるものではありません」
 一風変わった衣装の表衣と中に着込んだ巫女用の着物は、見てすぐに上等の織物だと判る。その上等な着物の袖口が、真っ黒く汚れていた。
「着替えをお持ちしますので、そのままで居てください」
「何、折角暖まったこの衣を脱げと? 多少汚れていても良いではないか、出掛けるでも無かろうに」
「いいえ、いつでも美しくあることは大切なことです」
「裏葉、許してくれ!」
 急ぎ足で部屋を下がり、目に付いた女官から着物の在処を尋ねる。
 たくさんの着物の中から、暖かい色の着物を選び、必要な物を抜き出す。
 いささか早足気味に戻ると、手を挙げて待つ神奈が不服そうな顔で見上げた。
「さ、お着替えです」
 着物を横に置き、必要な分だけ広げる。
 神奈が着ている衣をはだけ、汚れが他に付かないようにたたみ、紐の類をまとめる。
「さ、寒いぞ、やめぬか」
 されるがままになりながらも、小さく揺れる神奈の肩から襦袢を滑らせると、なめらかな丘に白い翼が現れた。
 淡く光る翼は、小さいながら鳥にはえているそれと同じようなつくりで、神奈の背中にあった。
 それに手を止めることなく、私は新しい衣を着せ、帯を締めた。
「…やはり冷たいぞ」
「すぐに暖かくなります」
「火鉢にもっと近寄って良いかの」
「これ以上はいけません」
 たたんだ衣を布に包み、そこで神奈の視線と自分のとが合う。
「…そなた、何か言いたいことはないのか」
「羽のこと、でございますか」
 やはり、というような表情で神奈の視線は私を避けた。
「…驚いたであろう。皆、初めて見る者は驚く」
「それは驚きましたよ」
「…そうか…」
 静かになって俯く神奈の衣のあわせを整え、帯を強く締める。
「あんまりに綺麗な翼でしたから、一本抜き取らせていただこうかと」
「抜いたのかっ!」
 振り向くその表情は、本当に無造作に感情を出す。
「いいえ、抜いておりませぬ」
 小さいその頭に手を乗せて、軽く撫でる。
「…では、その手に持っておるのは何だ?」
「抜け毛ならぬ、抜け羽根、とでも申すのでしょうか」
 はだけた衣の中から一本、こぼれた小さな羽を見せる。たった一本でも、先程の大きな翼と同じように淡い輝きを放っている。
「ほう…道理で痛くないと思った」
 痛くないと言いながら、自分の背中をさする。誰かに抜かれたことでもあるのだろうか。
「裏葉」
「何でございましょう?」
「面白いな、お主は」
「神奈様にはかないません」
 私の言葉に、一瞬息をのみ、まだうなだれて答える。
「…そうか」
「…神奈様、ここでは『そちも悪よのう』と答えるのがよろしいんでございます」
「そちは悪いのか?」
「いいえ、言葉遊びの一つと思ってくださいまし」
「ふむ…都での流行か?」
「そうとも言えないこともございませんねぇ」
「そうなのか、違うのか、もちっとはっきりいたせ」
 聞いた話を疑わず、返す言葉はとても面白い。ころころと変わる表情を見ていると、自分が慰めに来たのか慰めて貰っているのか、判らなくなる。
「面白いな、裏葉は。本当に明日からが楽しみじゃ」
「私もでございます」

 自分に宛われた部屋まで、また先程と同じ女御が付き添った。
「…神奈様をどう思われましたか」
 廊下をだいぶ進み間もなく私の部屋と言うところで、押し黙るのをやめたようだった。
「どう、と申されましても、高貴さを感じる女童と」
「恐くはありませんでしたか?」
「恐い?」
「見た目こそ我らと同じであれど、その姿は異形。神に言葉を伝える事ができるのならば、少しでも気に入らないことがあれば我らをどうとでもすることができると言うこと。裏葉どのは、恐くはないのですか?」
 その言葉に、もう一度神奈の姿が思い返される。
 背中の白い翼と、良く変わる表情。真っ直ぐに見る瞳と引き結ばれた口元。
「やはり、まだ学ぶことの多い、女童だと」
 ほう、と呟く。
「なるほど。では、これから神奈様の身の回りの全般は裏葉どのに任せることにいたしましょう」
「来た早々の、わたくしめにですか?」
「そう、裏葉どのに。見ての通り、この社殿は働く女官の数が少なく、あれもこれもと一人で複数の役所をこなします。その中で、神奈様専属の用事だけを行ってくれる女官がいれば、他の女官もやり安いかと思うのです」
 確かに、社殿の広さに対して女官の数は少ないように感じる。その役割分担は良くは知らないけれど、端から端までを歩き回らされれば、それだけでも重労働だろう。
「かまいません。ですが、なにぶん不慣れなのでいろいろとご指導いただきたく」
「もちろん、それはこちらも充分にさせていただく所存です」
 私が返答をすると同時に、再び声が聞こえてくる。

『これで我が身は安泰だ』

 神奈の、この館での扱われ方が、判ったような気がした。
 身の回りを世話する女官が主を恐れ、離れようとしているならば、神奈が女言葉を覚える間など無かっただろう。
 神への加持祈祷を願いに来るのは、公家か武家の男子であったろう。その中で今の言葉使いが出来上がっていったのかも知れない。

『見た目こそ我らと同じであれど、その姿は異形。神に言葉を伝える事ができるのならば、少しでも気に入らないことがあれば我らをどうとでもすることができると言うこと』

 …そのように思われる中で暮らしを営むのは、思うよりも辛いのかも知れない。
 白く淡く輝く翼のために、縛られる事の何と多いことか。

『何故に、わらわはこの身に生を授かったのでしょう』

 ふとよぎる、悲しい思い出の言葉。
 神奈とは似ている部分もほとんどない前の主が、しかしその瞳に宿していた悲しみの色は同じではなかったか。
 その悲しみを、できる限り取り払いたい。
 引き結ばれた口元を、もっと綻ばせたい。
 …いつの間にか、そう強く思う自分が居た。


 つらつらと書き物をしている間に夜も更け込み、その身を細らせる月の灯りが白々と冷えた室内を照らす。
 身を出せば、かかる雲も見えず、濃い藍色の空には瞬く小さな輝きが散らばる。
 この空を、前の主は見ているだろうか。神奈は見ているだろうか。
…たぶん、見ては居ないだろう。
 見えずとも、あまねく等しく、そこのある空に、私は祈りを捧げた。私の仕える主に。
 …月の光が誰の上にも注がれるように、我が主の上にも、安らかな幸福が注がれるように、と。