「ひゃあっ」
飛沫が顔にかかり、思わず神奈は目を閉じた。
「あらあら、お顔にかかってしまいましたね」
側に置いてあった手拭いで、裏葉は神奈の顔を拭う。
「こら、今のはわざとであろ! このような狼藉、余は許さぬぞっ」
まだ女声の声変わりもしていない高い声が、狭い川の向こう側に座している柳也の耳に突き刺さる。
「わざとでできるか、よく考えてものを言え」
「何と、余を愚弄する気かっ」
呆れ果てた声で返した柳也の返事に、神奈がくってかかる。その肩をさも自然に抑え、裏葉が微笑む。
「あらあらまあまあ、神奈さま、その様なお声を出しては夕餉に食す物がなくなってしまいますよ」
川面に糸を垂れた手製の竿を持ち、深く頷く柳也。
空の色は青に薄く朱を混ぜはじめて、高く遠く広がっていた。
「さ、神奈さま、そろそろあちらで火をおこしておきましょう」
まだ不機嫌そうな顔の神奈の肩をごく自然に抱きながら、裏葉が林の中へと誘う。
「うむ。丸々と太った山女待っているぞ」
「都合のいい注文をつけていくな、お前が大きい声を出したせいで魚が逃げたんだぞ」
「そこを捕まえてくるのがまことの臣下というものであろ」
大きな溜息が二つ、同時にこぼれた。
「なぜ裏葉が溜息を付くのだ」
「いいえ、ただ神奈さまのお側から離れてはいけないと痛感いたしたまでです」
「本当に裏葉は忠臣だな、俺なら見捨てて逃げるところだ」
「二人とも、余をなんだと思っておるのだっ! 無礼であろ」
怒り出した神奈をもう一度裏葉がなだめ、火をおこす準備を始める。その背中を見て、柳也も釣りを再開する。
しばらくして垂れた糸を引く感触に竿をあげれば、ようやく初めての獲物が上がる。
三人で食べる分だけ釣り上げると、神奈と裏葉が囲う火の側に座して魚の口に串を刺す。
空を見上げれば、月の色が闇色の中で三人の頭上に照っていた。
それは、確かにあった事実。
そして、今は届かない夢。
今は…。
取り戻すことを願う日々の中に。
都の路地を行き交う人は、その日もまた数え切れないほど沢山いた。
だからこその都だが、大通りを通る人々の姿は世の中を反映するかのように以前とは趣が変わっていた。
平和を謳歌していた時には道行く娘の衣一つも艶やかで華やかであったものが、今ではいかにも着古したような、ぼけた色の物ばかり。
老人、子供の着る着物も簡易で粗末になり、身体の一部に怪我を負った者も珍しくはなかった。
その時勢は、怪我の癒えぬ柳也と裏葉には皮肉にも役に立ってくれた。
季節は夏から秋へと替わり、もう冬が来る。
畑を耕すにも、狩りをするにも困難な裏葉と柳也が、その時節に都へ入ったのは、賢明な判断だったろう。
そして、それは自分たちの目的を達成させるためにも良い判断だったろう。
高野で裏葉と柳也が得た物は、柳也の背中の傷と二人の間の絆、そして神奈を取り戻そうという願いだった。
願いを叶えるために、その方法を知りたい。方法を知るためには、現状がどうなっているのかを知りたい。
情報を集めるなら、人の多いところへ行く
事が一番である。しかも、できるだけ様々な人が集まる場所へ。
そして、怪我をしている柳也と仕事といえば女官しかしたことのない裏葉が冬を越すには、山の中より人の中での方が何かと都合が良かった。
都に入り、行商人の夫婦と身を偽ってはいたがそれでは喰うに困っていた。
そこで、大通りから少しはずれた場所に建つ食事処に二人は雇い入れて貰うことにした。
最初は店の主も、雅な言葉と作法の裏葉に疑問を持ったが、柳也の背中を直に見せると「役立たずの夫を支えるために働く妻」と思い、いろいろと心を砕いて世話をしてくれるようになった。
役立たずといわれることに不満を持ちながらも、柳也は薪割りの係として同じ店で働いた。二人はよく働き、特に裏葉は器量と機転の良さで重宝されるようになった。
夜になると酒も出す食事処で、酒で口が軽くなった客から少しずつだが高野での話を聞くようにもなってきていた。
「話を聞けるのは良いが、今ひとつ不確かなことばかりだな」
小さな空き家を居とし、板間に敷いた薄い布団に潜り込んだまま、柳也は闇の中で呟いた。
「店に来る者で事情を知る者はみな、雇われた東兵ばかりですから。もう少し上の階級の人と接触を取れればよいのですが…」
「といっても、下手につついて俺達の素性がばれては困るからな」 大事をとって名前も変えた二人には、真相を掴むために必要な上層部の情報を入手する術が足りていなかった。
柳也が頑健だった頃なら、実力者の館に忍び込んで調べることも可能だったかも知れないが。
今までで集まった情報は、「悪鬼が出た」「悪鬼は封じられた」など大まかすぎて役に立たない。
「…神奈は、まだ待っているだろうか」
「待っています。神奈さまの声が…泣いている声が、今でも私の耳に聞こえます」
「なら、迎えに行かねばな。あいつ一人じゃ何もできないからな」
「ええ。そして今度こそ、三人で…」
細く白い裏葉の手と、色の濃い骨張った柳也の手が、どちらからともなく延びて指先を絡め合う。
「ああ、今度こそ三人で」
伝わる温もりにお互いの存在と気持ちを重ねるように、二人は手を繋いだまま眠りについた。
「裏葉どの?」
久しく呼ばれていない名前で呼ばれ、裏葉は一瞬表情を繕うことを忘れた。
「ああ、やはり裏葉どの。私を覚えておいでですか?」
食事時を過ぎ、夕のための買い出しに出てきていた裏葉は道行く人に声をかけられ、よくその顔を見返して、やっと相手に心当たりを思い出した。
「以前同じ館にお仕えしていた…」
「はい、今は別の館で勤めていますが、前は裏葉どのと同じ姫様にお仕えしていました」
神奈に使える前に勤めていた館で、確かに共に働いていた相手だった。
「あらあらまあまあ、懐かしい人にこんなところでお会いできるなんて」
「ずっと気になっていたんですよ、もし良かったらどこかでお話でも」
「あらあら」
二人は一軒の飯屋に入り、簡単な食事を頼んだ。
「本当にお懐かしい」
相手の名前は思い出せないが、確かに懐かしい相手に出会い、裏葉も久しぶりに心から頬をゆるませていた。
裏葉の以前仕えていた相手は大臣を祖父に持つ姫で、美しく優しく、それ故に帝の寵愛を受け成人すれば正妻に迎えられるだろうと誰もが噂するほどの美姫だった。
だが、悲しくもそれが裏目に出て、朝廷の他の勢力からの妨害に心を痛めた姫は、裏葉を神奈の元へ推薦して出家してしまったのだ。
今目の前にいる女性も、裏葉の記憶違いでなければ勢力争いの相手に襲われ、怪我を負ったことがあるはずである。
「今はどちらの館にお仕えに?」
「いえ、私は民の中で働いております。連れ添う相手が居るので。あなたの方こそ、お変わりはありませんでしたか」
「まぁ、時間というのは気が付かないうちに経っているものですね。
私の方は、帝の東方様に仕えています。とは言っても、仕えている女官の中でも本当にたいしたことのない役所しか仰せつかりませんけど」
帝という言葉に、裏葉は一瞬反応した。が、もちろんそんなことを相手に気取らせるような真似をするほど、油断はしていなかった。
その場は、昔話で時が過ぎた。暮らしぶりの変わり様が恥ずかしいからと出会ったことを口止めして、裏葉は相手の去りゆく背中を眺めた。
考えのそう深くない相手だったので、きっと自分に疑問は持たないだろう。口止めの理由も心の底から納得した様だった。
あと何度か会えばもしかしたら詳しい話を聞けるかも知れない…。裏葉はそう考えると、足早に用事を済ませて柳也の元へと急いだ。
数日後。
本来なら夕食時で店が忙しくなるその時間を、裏葉はとある館の一室で過ごしていた。
昔の同僚とはあの後、何度か偶然を装って接触することができた。
そんな折り、向こうからさも重要な話と言う顔でその場所へ呼び出されて来たのだ。
柳也には事情を言ってある。もしかしたら罠かも知れないと言う考えもあったが、あえて言われるままにすることを決めた。
もしかしたら現状を打開するかも知れないその可能性に、かけてみることにしたのだ。
簾で仕切られた部屋には自分一人、その外にも誰かが居る気配はない。灯をともされてだいぶ経つ蝋燭の光を受けながら、裏葉はじっと待ていた。
そこへ、ふと気配が生まれる。衣擦れの音、足音から、警戒をする相手ではないと判断してそのままの姿勢で待つ。
足音が止まる。
簾が開き、狩衣をまとった男性が部屋の中へ入ってくる。
光の輪の中に男が入り、その顔を見て裏葉は息をのんだ。
「…帝様…」
昔にほんの数度、遠い場所から見ただけだったが、どんなに質の悪い衣を着てもその姿は見間違えることがなかった。
裏葉の以前の主を慕い、故に出家させる原因となった相手。そして、国家の頂点に立つ相手。
「…裏葉よ、足労であった。まろのためにかようなところへ呼び出してすまなかったの」
「とんでもございません」
心の動揺を隠しながら、ひれ伏して顔を下げた。
たしかに情報は欲しかったし、立場が上の物との接触を希望していたが、最上の地位を持つ相手が出てくるとは思っていなかったのだ。
「裏葉と申したな、懐かしい姫に仕えていたのを覚えておるぞ。我が妹の女官から今の状態も聞いておるぞ。くるしゅうない、顔を上げてたも」
帝の言葉に顔を上げると、昔よりやつれた帝の顔に気が付いた。
年の頃を考えると、見た目の方が老けて見える。
「そなたを翼人の館へ推薦する書状を書いたのはまろである、おおよそのそなたの行いは聞き及んでおるぞ」
やはり罠か…そう思った裏葉の耳に、信じられない言葉が飛び込んできた。
「まろを許してたも」
国の頂点に立つ相手に許しを請われ、とりあえず理由を聞いたその話とは、要約するとこうだった。
最愛の姫を手の届かない場所へ行かせてしまった責任を感じ、勢力争いに歯止めをかけると同時に朝廷の威光を確たるものにするため、帝は皇族の血縁者から正妻を迎えた。
これによって宮廷内で勢力を伸ばしていた藤氏が、血縁での権力保持から力での権力保持に走り、宮廷陰陽師を抱え込んだ。
帝が「神から地を治めるために遣わされた一族」であることを確たる物にするのならばと、帝以外の「貴き存在」を消そうと大儀を掲げ…実際には権力を握っていた相手が翼人を信奉していたから、その名分を使って、藤氏は高野へ攻め入った。
が、それならば本来信奉者であり権力者であった法皇を討てば良かった物を、雇い入れた兵が翼人の力を狙い裏切り、血みどろの争いが起こったのだと。
戦う者は、翼人の力を見せつけられその力を欲し恐れ、命の瀬戸際で身を守るべき生存欲求は、翼人への攻撃へと転嫁されてしまったのであろうと。
聞いてみれば、この戦によって願いを叶えたのは誰だったのだろうか。
争いを止めるために出家した姫、争いを止めるために想わぬ相手との婚姻を結んだ帝。
母親との生活も自分たちとの生活も続けることなく高野の空に消えた神奈。
…それらを思う裏葉の頬には、いつの間にか光る筋が流れていた。
悲しい故か、悔しい故か。その判断はつきかねたが、雫として溢れるほど、裏葉の胸には込み上げるものがあった。
「ふがいのないまろを許してたも…」
よく見れば白髪の混ざった帝の、最後の言葉に裏葉は何も言い返せなかった。
頂点といわれる存在でありながら、思うことを叶えられない帝。
その帝を恨む気持ちはなかったが、許す許さないという気持ちでもなかった。
ただ、世の中の悲しみが、切なかった。
「…そうか」
帰り着いて事情を話したあと、柳也は深い溜息と共に口にしたのはその言葉だけだった。
柳也が望んでいる情報が何であるのか、裏葉には痛いほどわかった。自分が何を望んでいるのかを帰る道中で気が付いたからだ。
欲しいものは、神奈との生活。
願うことは、神奈の幸福。
それを叶えるために、今を生きているのだ。
裏葉と柳也は、また地道に働いた。
冬が過ぎて、山の桜も美しく薄紅に染め上がる頃、二人は行商へと戻った。
看板となりつつあった二人を手放すことを店主は惜しんだが、それでも最後に僅かながら食べ物の手当をくれた。
金銭よりも米の方が価値のある時勢、それはとてもありがたかった。
雨の多い季節が過ぎた頃、二人の耳に希望を伝える噂が届いた。
方術師の一団の噂である。
翼人を封じ込めた高野山でもなく、そこへ攻め入った朝廷陰陽寮でもなく、その二つに匹敵する団体。
その団体ならば、自分たちの望むことを知っている可能性もあるだろう、そう思った二人は旅路へと足を踏み出した。
もしかしたら、それは帝が二人のために流したものであったかも知れないが、判断を付ける材料はどこにもなかった。
都へ上るときの旅路とは、いささか勝手が違っていた。
柳也は同じ不自由な身ではあったが、都へ上った時よりも体力が落ちているようだった。
その理由は、はっきりとは解らなかった。
正しい治療法をしても癒えない傷は、まるで神奈が消えたことでできた心の傷に呼応するようにも見えた。
もしかしたら、その通りなのかも知れない。
二人は山道を寄り添うように登った。
その影は、長く伸びていた。
以前は三つの影で歩いた山道に、今は重なり合って一つになった影が落ちていた。
二人の夢は、まだ遠い。
試練の日々が待っているその道の先へと、二人は進んでいく。
暮れゆく空は、夏の匂いを抱いていた。