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雨の次はまた雨

 水溜まりに夕焼けが反射する。
 その色の美しさに、人は皆気付かずに踏んでいく。跳ねる飛沫が、虹を描いても。
 草の葉についた雫に、無数の空が映る。
 一つ一つに太陽があり、雲があり、世界がある。
 …その中に、あいつが行った世界があればいいのに。

 雫を払って、ピンクの傘を畳む。
「…今日も、来ない」
 それが当たり前。それが日常。それが…いつものこと。
 この空き地で、いつものことを繰り返して、一年以上の月日が流れた。
 あいつが、消えた場所。
 あいつと、最後に会った場所。
 …あいつと、私を繋ぐ場所。
 雨が降るたびに傘を持って、通ってきた場所。
 その場所には、最近立て札が立てられた。そこには工事の予定が書かれている。
 間もなくこの場所は、空き地ではなくなる。
 …帰ってこられるのだろうか。
 帰る場所をなくしたあいつが。
 …帰ってくるのだろうか。
 帰る理由を持たないあいつが。

 嫌なことを考えそうになる頭を振ると、気を取り直して家路へと足を進める。
 ゆっくりと、ゆっくりと。
 帰っても、予定はないのだから。

 雨が降るときにだけ、私には用事ができるのだから。



 けだるさを感じながら、下ごしらえを済ませた挽肉を一口大に丸め、平たくした形でラップに包んで冷蔵庫へ入れる。
 明日は上月さんとお弁当を食べる約束、交換用にこのハンバーグは多めに入れて行きたい。
 ラディッシュを彩りに入れ、厚焼きたまごは真四角に切ってみよう。こちらも交換用に、いつもより贅沢に蜂蜜を使おう。
 できる隙間には、ブロッコリーで濃い緑を。
 ご飯にそぼろとさくらでんぷんを散らして、ウィンナーはカニに切ろう。きっと見た目で上月さんは喜んでくれると思う。
 イメージしたお弁当の具で、下ごしらえが必要な物はもう残っていない。そぼろも、先に冷蔵庫にしまってある。
 明日のお弁当はハンバーグ中心だから、明後日は魚を入れよう。鮭があったから、焼いてほぐしてもいい。
 階段を上がる。一段一段。
 部屋のドアを開けて、ベッドに倒れ込みたい衝動を抑えて、カバンに明日の分の教科書を入れる。
 一度くらい、予習という物をしてみたいけれど、やっぱり今日もできそうにない。
 ベッドに潜るとすでに重くなった瞼を閉じ、身体を布団に委ねる。

 夢だと判る。目を開いた瞬間に。
 見るはずのない顔が、そこにあるから。
 懐かしい顔、懐かしい声。聞く前までは記憶に本当に微かにしか残っていなかった物が、鮮明に色を取り戻していく。
 優しい笑顔、黒い瞳、大きな手の平を差し出して、私の名前を呼ぶ低い声。
 応えようと口を開くけれど、声にならない。

 夢だと、判る。

 伸ばした手が触れる前に、白かった世界は暗転してしまう。
 …居ない人に、触れるはずがないから。



『おいしいの』
 満面の笑顔で、厚焼きたまごを頬張る。美味しさに頷くように頭を振るたび、後の大きなリボンも揺れる。
「そうですか。ハンバーグ、もう一つ食べても良いですよ」
『うれしいの』
 スケッチブックの前のページを開いて見せてくる。
 声を出すことのできない彼女は、伝えたい言葉をスケッチブックに書いて見せてくる。もちろん、だから、そのスケッチブックの前の方に書いてある単語は、以前からよく使う単語なのだろう。
 『嬉しい』…その単語をよく使うこの少女には、笑顔が絶えない。
 私も厚焼きたまごを一つ頬張る。いつもより甘めで、焦げないように焼くのに苦労したけれど、その甲斐あって美味しくできたと思う。
 上月さんのお弁当からトレードした物は、某ネズミ型キャラクターの形をしたトーストサンドイッチ。具はツナとトマト、汁気が抜いてあって、安心して食べられる。
 天気は上々、日差しも眩しくなく、中庭で昼食をとるには絶好の日だった。
「今度、詩子とも一緒にお弁当食べられると良いですね」
 うんっ、と頷く澪ちゃんの顔に、影が差す。
「呼んだ?」
 見上げなくても判る声。
「良いんですか、詩子」
 それでも見上げれば、案の定良く知る顔。他の学校の制服で、堂々と私たちの学校にやってくる。
 …平日、授業直前問わずに。
「今日、うちの学校創立記念だったの、忘れていたよ」
「で、学校へ行く準備して出てきたけど、校門が閉まっていたんですね」
「わ、どうしてそこまで判るの?」
 心底驚いた顔をする詩子の、制服を指さした。
「休日だと判っていて、わざわざ制服は着ないでしょう? この前買った新しい服を着てくるならともかく」
「茜、凄い! 高校出たら探偵になったら?」
「なれません」
 くいっ、と袖口が引っ張られる。振り向くと、スケッチブックが目の前に突き出される。
『助手やるの』
 文字の向こうの笑顔。
「だったらあたしは、さしずめ美人秘書かな。美人会計士でも良いよ」
「…無理です」
「茜が探偵をやるのが無理なの? できると思うんだけどなぁ」
「…詩子が、美人秘書や美人会計士になるのが、です」
「茜、それは、私が秘書や会計士が向いていないって言ってる? それとも美人じゃないって言ってる?」
 沈黙。
 詩子の言葉に、あえて沈黙で答えを返した。

「あかね〜〜っ! そんなこと言うなら、そのお弁当は没収!」
「ダメです、代わりに詩子のお弁当ください」
『ハンバーグ、欲しいの』

 穏やかに、雲は流れて。
 賑やかな、時は過ぎて。
 三人ではしゃぐ時間は楽しかった。
 楽しかったから、切なかった。
 それでも心にわだかまることは、拭いきれずにいるから。



 掃除用具をそれぞれに片付ける。ある人はゴミを捨てに出掛け、ある人は窓ガラスに鍵をかけ、そして私はバケツの汚れた水を捨て。
 三つ編みにした髪を前に垂らしていると、このバケツの水を捨てる作業は難しい物だったりする。
 勢いよく流せば、水が髪に跳ねるから。
 だから、ゆっくりと、静かに低い位置から流す。バケツが重いけれど、支えておかないと自分が困ってしまう。
 何とか水を全部捨て、バケツの中を濯いで、一緒に持ってきた雑巾も揉みだして、バケツについた水滴を拭き取る。
 これで、今日も一日が終わる。そう思って顔を上げ、ガラスの向こうに目をやった。
 その視界に、別校舎への渡り廊下が映る。上月さんが所属している演劇部も、別校舎にある。
 もしかしたら、上月さんが通るのが見えるかも知れない。そう期待したけれど、そこを通った人影は一つ。
 見知ってはいるけど、あまり話したことのない人。
 長森、瑞佳さん。
 同じクラスの彼女には、不思議な噂がある。
 その噂に興味はあるけれど、それで声をかけるのは、まるで興味本位で人の心に立ち入るようで気がひけて、未だに私から声をかけたことはない。
 ただ、面倒見のいい人で、以前一人で昼食を食べていた私に声ををかけてくれたことがあるのを覚えている。

 三年生の私たちは、もう部活動は引退させられている。
 部室と特別教室ばかりの別校舎に、長森さんがどんな用があるのか…。
 時計を見ると、思ったよりも時間が過ぎていた。
 バケツの中に雑巾を入れて、私は早足で教室へと戻った。



 彼女の噂を思い出す。
 長森さんに関する噂。
 あまり詳しく噂話を聞いたことなど無いけれど、耳に入ってくる分が多少はある。

 彼女には、想う相手がいると聞く。
 その相手は、みんなは実在しないと言っているらしい。
 でも、長森さんは居るんだと。いつも持ち歩くウサギのに、内蔵されているテープに入ってる声の主がそうだと。
 みんなは、長森さんが架空の人物を実在してると思っているらしい。誰も、その相手を知らないから。

 私は…。
 架空の人に恋愛しているのかどうか、判断が付かない。
 でも、私の現状も、端から見れば同じ事なんだろうか。
 一度、長森さんと話をしてみるのも良いと、思った。