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永遠の少年
 灰色の雲が遠くに薄く尾を引いて、朱色を残す。夕方と呼ぶ時間からは幾分過ぎている。
 上月さんも、すでに帰宅しているこの校舎で、私は人に会おうとしている。
 長森さんも、さっき帰った。本当は彼女とも話してみようと来たけれど、今はもっと話したい相手が居る。

 長森さんが入ったのを見て、時間をおいてから別校舎の入口で待ち伏せる。…それが当初の計画だった。
 長森さんが入るのを見届けるまでは予定通りだったけれど、彼女が入った教室まで見てしまった事が、予定を狂わせた。
 『軽音部』と書かれた札。穏やかそうな長森さんが、そんな部活動に入っていると聞いたこともなければ、入っていそうにも見えない。そのくせ、教室へ入っていく長森さんは、どことなく嬉しそうだった。
 だから私は、窓から覗いてしまった。
 そして、見てしまった。
 色の白い、不思議な少年を。どこか冷めた、紅い眼差しを。
 誰にも似ていない、でもどこかで見たようなその少年は、私を見つけながら平然と長森さんと何かを話し続けていた。
 隙をついて窓から離れようとした私に、小さく微笑んで。

 誘われた…私はそう判断した。
 初めて見るあの少年は、私を呼んでいると。
 闇が薄くその領域を広めてくるこの時間に、それでもなお私は部室の扉に手をかけた。

「ようこそ、軽音部へ」

 高校生男子にしては、少し高めの声。それは、細く女性的な外見にふさわしかった。
「…入部希望者じゃありません」
 部室に踏み入ると、私は後ろ手に扉を閉める。
「確かに、今から部活をするには少し遅い時間だね。だったら、どうしてここへ来たんだい?」
「それは、あなたが知っていると思います」
 詩子とはまた違った意味で、つかみ所のない人。
「僕は、君が何かを聞きに来たように見えるけどね。さっきのように」
「やっぱり、私が見ているのを判っていたんですね」
「それはわかるさ」
 色が白いせいか、笑顔が儚げに見えた。
「キミは、長森さんに似ているから」
 思いがけない一言に、どう対処して良いか狼狽えた。
「どうして、そう思うの?」
 紅い眼差しは、真っ直ぐに私を見て。それがどこか確信を持っているように思えて。私は、目を逸らしそうになる自分を堪えながら、その眼差しを見返した。
「同じ目をしているよ。縋るような、悲しいような。…何かに、耐えるような」
 瞳に陰りが差し、部屋全体が薄暗くなっていく。廊下から電灯の明かりが漏れて、足下だけは照らしてくれる。
「そしてキミは、僕にも似ている」
 黙っている私に、そのまま話を続ける。
「行きたかった場所に行けなかった、帰りたい場所に帰れない。…違うかい?」
 自分の腕に鳥肌が立つのを感じた。
 寒いわけでは、もちろん無い。
 恐いのだ、目の前の少年が。得体の知れない少年が。
「どうして…その事を?」
 誰も知るはずのないことを知っている、その少年が。
 どうしようもなく、恐い存在に感じられた。
「やっぱりそうなんだ。なんとなく判るんだよ、もういい加減、ね。だからボクは、キミと話をしてみたくなったのかも知れない」
 ゆっくりと、彼が近付いてくる。
 恐いけれど、近付かれることは恐くなかった。距離を詰められることより、心を覗かれることが恐かった。
「ボクには、もうあまり時間がないから。できるだけのことを、していきたいんだ」
 目の前で、歩みが止まる。
 少し見上げた位置に、彼の顔がある。
「キミは、永遠に続く世界を見たんだね」

 その一言に、私の気が遠くなった。
「どうして…」
 辛うじて開いた口から漏れた言葉を紡ぎきる前に、私の意識は混濁していった。



 暑い夏の日。
 高い木の枝と、そのさらに高みに見える積乱雲。
 その下を走り抜ける私と詩子と、あいつ。…それは、もう古い思い出。性別の違いに、気が付かなかった頃の思い出。
 先人を競うように走るあいつと詩子。その後を追いかける私。
 肩より長い髪があちらこちらの木の枝先に絡んで、それを解くうちに二人に遅れて走っていた。
 急ごうと思う気持ちと裏腹に、私の髪は太い枝に絡んでしまっていた。
 枝を折るにも髪を解くにもほとんど困難な状態で、先に行った二人の名前を呼ぶことしかできずに立ちすくんでいた。
 蝉の鳴き声が、木々を揺らす鳥の飛び立つ音が、いやに大きく聞こえるのに、応える声は聞こえなかった。
 数分とも数十分とも判らない孤独は、今でも覚えている。
 だから、木々の隙間に見え隠れするあいつの姿を見たときは、本当に嬉しかった。

「明日、髪の毛切る。私も一緒に走りたい」
「そんなこと言うなよ」
「枝に絡まるこんな髪、いらない」
「大丈夫だよ。いつでもこうやって、助けに来てやるから」

「だから、伸ばしていろよ、髪」
 解かれて自由になった首を、大きく縦に振った。
「うん!」


 春の昼下がり。
 桜の花びらが敷き詰められた歩道を見下ろしながら、初めて袖を通した制服を見せ合ったあの日。
 くっきりとついた筋をそのままに、スカートを翻すのも嬉しくて。
 もう、男と女の違いを認識できる年頃だった。
 入学式の前日に、詩子の家に集る約束に遅れそうだった私はいつもと違う道を通った。
 昔は近道だったそこは、いつの間にか通れなくなり、仕方なく余計遠回りな道を歩くはめになっていた。
 遠い昔の記憶を頼りにやっと詩子の家を見つけた私は、思わず走り出していた。

 鼓膜に響くブレーキ音。
 音に振り向いたときには、何か鈍い音がしていた。

 鼻につく砂煙の匂いに、固く閉じた瞼を開けると、車はタイヤの跡をアスファルトに刻んで姿を消していた。
 自分の身体に痛い部分はない。
 ただ、柔らかな感触に後ろを見れば、あいつが私とブロック塀に挟まれていた。
 立ち上がった背中には、大きな鉤裂きが真新しい制服をただの布切れにしていた。

「ごめんなさい」
「いいって。でも、次は前を見て歩けよ」
「でも、制服が…」
「これから暑くなっていくんだ、上着くらいしばらく無くても良いだろ」

 同じ上着の色に染まる入学式に、あいつは白いシャツで出席した。
 先生からも色々聞かれたみたいだった。

「ごめんなさい…」
「いいって。代わりに、今度何か奢ってくれればそれでチャラだ」
 笑ってくれる事が、何よりも嬉しかった。

「約束だぞ」


 夕焼けに染まる秋。
 校庭の紅葉はすっかり色濃く染まり、つるべ落としの陽が沈む。
 こっそり持ち込んだお菓子を、詩子には内緒にして二人だけで食べながら話をした。
 溜息を何度もつかれるたびに、私の胸には、何かが刺さるような痛みが走った。

「髪が長いって、女らしくて良いよなぁ…」
 私の髪を見ながら、あいつが言う。
 それは、ガラスに映りこんだ別の風景を見るように。
「この間、自分の手作り弁当を持ってきていたぜ。料理ができるのって、良いよなぁ」
 お菓子と一緒に、私が持ってきた手製のおにぎりを食べながら、あいつが言う。
 それは、鏡の向こう側を覗くように。

 あいつが気にしている人を、私は知っている。
 あいつが、どうしてその人を気にしているかも知っている。
 彼女が、ずっと以前に亡くなったあいつのお母さんに、どことなく似ていたから。

 何度も何度も、あいつの口から彼女への賛辞が紡がれる。同じ部分を私が持っていても。
 あいつの目は、私を見ない。私を見ても、彼女を映す。

 それが、息を止めらたかのように、心臓をつかまれたかのように、苦しかった。


 冬。氷雨の降る冬。
 昼なお暗い空き地で、あいつは消えた。
 ずっと、辛そうな顔をしていた。
 彼女が、手の届かない相手になってしまったから。
 あいつの辛そうな顔を見るのは辛かったけれど、側にいられることに満足していた。
 今度こそ、私を見てくれると思った。
 あいつの心の痛みは、やがて消えていく物と思っていたから。

 痛みは、消えずに呪縛となり、あいつの存在自体をこの世界から切り離そうとした。

 私は、それをどうすることもできずに、ただ消えていくあいつを見ながら泣くことしかできなかった。
 あいつも、泣いていた。とても、悲しそうな顔で。

 それが、私が見た彼の最後の顔だった。


 春が過ぎ、あいつの存在は消えていた。消えたことに、誰も気が付かない。昨日まで一緒に話をしていた人も。
 一緒に遊んでいた詩子は、誰よりも先に彼を忘れた。
 薄れそうになる記憶を必至に繋いで、あいつの存在は私の心だけに留まることになった。
 夏が来て、夕立の度に空き地へと走った。
 あいつが帰ってきたときに、雨に濡れないように。傘を持たずに泣きながら消えたあいつが、帰ってきたときにまた、冷たい雨に濡れないように。

 雷が鳴る中を、じっと待って。


 秋になり、長雨が落ち葉を濡らし、空き地の中に立つ時間も長くなった。
 今日こそは…次にはきっと…そう思うことを繰り返し、心に沸き上がる絶望を押さえ込んだ。
 来てくれるから…帰ってくるから…。
 あいつがいる場所は、ここにあるから…。

 頬を伝うものが、雨なのか涙なのかわからなくなった頃に、冬は来ていた。
 イルミネーションに華やぐ町並みを、真綿とスプレーで白くディスプレイされたショーウィンドウを横目に、雪にならない雨の道を走った。

 どうして、帰って来てくれないの?
 どうして、この世界を離れたの?
 どうして、私と一緒にいてくれないの?

 答えは、知っていた。
 この世界には、彼女がいない。
 なら、あいつが行った世界は、彼女が居るの?
 私にも、あいつの居る世界へ行けるんだろうか?

 唯一人の人だけが、私の総てになっていた。
 唯一の絶対。
 その人が無ければ私も無く、その人のためだけに自分は存在する。
 だから。
 …だから。
 いつの間にか自分も、あいつの行った向こう側の世界への扉の鍵を手に入れていた。


 懐かしい笑顔。少し下がる目尻。
 伸ばされた手を掴むと、思ったよりも冷たい。
 それでも、自分の心の中から込み上げる熱に、先程までうたれた雨の冷たさも消えていた。
 少し広い肩幅に、腕を回す。

「もう、どこにも行かないで」

 私の背中に回される腕の強さに、心から安らぎを覚えた。



 どうして、悲しいことはあるのだろう。

「気分はどうだい?」
 聞き慣れない声に、ゆっくりと瞼を開いた。重くて、開きたくなかったけれど。
 白い天上、独特の匂いから、そこが保健室だとすぐに判った。
 少し顔を横に向けると、そこには見慣れない少年。
「…連れてきてくれたんですか?」
 無防備な笑顔でを向ける。
「もちろん。倒れた女の子を放っておけないからね」
 体を起こしてみる…けだるいだけで、特に問題はないようだ。
「ありがとうございます…」
 そこで初めて、まだこの少年の名前を聞いていなかったことを思い出す。
「……」
「…僕の名前かい? 氷上シュンだよ」
 見透かされる恐さは、もう感じなかった。
「あなたは、何者ですか?」
「単刀直入だね、キミは」
「…里村茜です」
 自分の名前も名乗っていないことに、今更気が付く。
「じゃあ、里村さん。どうしてそんなことを訊くんだい」
「…知っているはずのないことを、あなたが知っているからです」
 ベッドに腰掛ける私の横に椅子を引きずってきて、そこへ腰をかける。
「知っているから、言えるんだよ」
「どうして、知っているんですか?」
 悪戯っぽく笑う仕草が、とても子供っぽい。

「僕は、永遠の世界から来たから」

 口にした言葉を、つい聞き逃してしまいそうになるほどに、彼は平然と笑った。