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幼馴染み
 いつまでも、子供で居られないと。
 自分の心に正直に生きることは、子供でいることではないと。

 気が付かなかったんだ。


 花びらが舞い、絨毯のように足下に敷き詰められた野原を、彼女は笑いながら走る。
 枯れることのない花びらは、いつまでもしなやかさを失わずにいた。
 どんな不条理も、僕は受け入れた。
 それが、その世界だから。
 その世界にしか、彼女は居ないから。

「ねぇ、今度は何をしようか」
 問いかけに明確な答えはなくても、彼女はずっと微笑んでくれる。優しい眼差しで、僕を見つめてくれる。
 それだけで、満足だった。

 他人や、家族や、友人。人との兼ね合いを考えることもなく、自分の心のままに生きることが許された世界は、まさしくエデンだった。


 そう、エデンだった。
 禁止されていたんだ、知恵の実を食することは。
 知らずに暮らすことが、たった一つのパスポートだったんだ。


「何を、考えているの?」

 彼女の問いかけに、我に返る事を繰り返していた。
 短いとは言えない時間を、すでに過ごしていた。
 腕の中に頭を擦り寄せてくる彼女の感触に、空しさを感じるほどに。

「…元の世界のことを、考えていたんだよ」
 瞼の上に、細く白い手が覆い被さる。
「余計なことなど、いらないでしょう?」
 諭すような甘い声に、意識が薄れていく。昼も夜もない世界では、それが睡眠のはじまり。

 そう、どうせ遠い思い出だ。
 自分が居なくても、変わらずに動き続ける世界。
 そんな世界に、自分が居る意味など無い。
 一緒にいたい相手が居る、この世界こそが自分にとってのリアル。

「夢が、朝のはじまり」
 彼女の声がはじまりであり、終わりでもある。
 一日、と呼んで良いか判らないが、その繰り返しを僕たちは過ごした。

 春と思えば桜。
 絢爛の花吹雪。

 夏と言えば百合。
 咲き匂う白い花弁。
 秋とするなら秋桜。
 細く濃い色の茎に、大きな花が揺れる。

 冬と感じれば風花。
 実際の花よりも可憐に、銀の煌めきは空を包む。

 その中に、彼女が居た。いつも笑う、彼女が。

 …いつも笑う彼女が?
 本当に笑っていたのは、誰だった?
 どの季節も側にいて、一緒に時を重ねたのは、誰だった?

 春、一緒に小径を歩き。
 夏、一緒に山野を巡り。
 秋には悩みをうち明け、冬には悲しみをとかす暖かさを与えてくれた。

 その人は、誰だったか?
 自分のために泣いてくれた人は、誰だったのか。

 元の世界での思い出は、捨てたと思っていた。
 今更、思い出すと考えもしなかった。

「いつものように、一緒に」

 彼女がさしだした手を、僕は取らなかった。
 僕が取りたい手は、ここにはないと知ったから。


 恐かった、まるで自分が迷い込んだ存在のように感じられて。
 自分の記憶さえ信じられないほど、街は姿を変えていた。
 覚えている限りの道を歩き、知った顔を捜す。
 いつの間にか小走りになっていた自分に気付かず、ただ求めて彷徨っていた。

 恐かった、懐かしい顔に会ったときでさえ。
 忘れられることの恐怖を目の前に突きつけられるなんて、ずっと無かったことだ。
 自分の弱さと小ささに、恥ずかしいと思うことも。

 気が付いてしまった。
 恐いから逃げていただけの自分に。
 気が付くことができたんだ。
 本当に大人になる意味を。
 悲しみを避けても、悦びは来ない。
 自分の中の世界では、自分は生きていない。

 ようやく見つけた背中に、声を掛ける。
 編まれた長い髪がゆっくりと振り向く。
 もう一度だけ、見たいと思った顔。

 思い通りにならない世界へ、この広い世界へ、僕は戻って来たのだ。
 あの子ともう一度、一緒に歩くために。
   
END