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流離(前半)
原案・でくの 文・水橋真琴


 闇を照らす月明かりを頼りに、その影は躓きながら、よろめきながら、それでもその山道を登っていた。
 
 ……否。山道と呼べるほどの道はなかった。そこは、ただ草を踏み分けて目印としたような、獣すら遠慮しそうな道だった。
 
「………ふむ」

 高価なのであろうが、見立ての良いとはいえぬ服装をした、その影はそれでもゆっくりと目的の場所へと近づいていく。
 彼がどんなに様々な物を見失おうと、いつでもそれだけは見失うことはなかった。



「……阿栖」

 闇の中、押し殺すような声で、たおやかな姫は彼の名を呼んだ。
 ゆっくりと、身に付いた泥を落としながら彼はその御簾ごしに姫の名を呼ぶ。

「……待たせた、な。神奈。また少し背が伸びたか?」
「どうであろうな。余にはそれを実感することは出来ぬが……」
「どれ」

 かすかに床がきしみ、姫の目の前の御簾の裾がそっと持ち上がる。条件反射なのだろうか。その行為を見るにつけ、心臓がかすかに早鐘を打つ感じがする。
 身軽に、影が御簾の中へと忍び寄ると、神奈は手を貸して床に散らばった雑多な物を踏まぬように気を遣ってやる。
 一度など、枕に躓いて転び、邸内の者達が、すわ、地震かと飛び起きてくることもあった。布団の中に押し込めて事なきを得たが、もしあれが明るみにでておればいったいどうなっただろうか。
 
 神奈はただの姫ではない。
 翼人の姫。
 人にあって人にあらざる、神に近き者として、社に奉られて生活している。
 体の良い軟禁なのだが、危害を加えられたことはない。
 強いて言えば、自由に出歩くことはほとんど許されず、ただ無為に毎日時を過ごすことを強要されることがあまりに退屈であるということだけが、不満であるが。
 
「お、神奈、やっぱり背が伸びておるぞ」

 うれしそうに、その影……藤森阿栖(ふじのもりあせい)……が、神奈の頭に手を置いて笑う。
 もちろん、声は押し殺している。だが、この時間、起きている者は起きている者なりに、寝ている者は寝ている者なりに、己のことに忙しく、少々声が漏れたとて気にすることはない。
 
「そうか」
「ああ、良かったな。もう少しこのあたりも成長すると良いが」

 無骨な手が神奈の胸のあたりをひと撫でする。衣の上を走る手はひっかかりを感じることなく滑り落ちるが、衣ごしに感じた手の感触に、神奈の鼓動がまた早鐘を打つ。

「この無礼者め」
「は、は、は。すまぬすまぬ。だが……なるほど、初めて逢った頃よりは大きくなったものだな」
「そ、そうか?」
「ああ。俺が言うのだから間違いはない」

 そういいながら、阿栖が上着を脱ぐ。その仕草が、何を意味するのかわかると鼓動は最高潮の早鐘を打つ。
 布団の上によけいなものはなかったか………?
 香はちゃんと炊けていたか?
 
「……ま、まったく、そなたという奴はなぜにそうせっかちなのだ」
「そうか」
「よ、余にも事情というのがあるのだ。少しはそのあたりを考えい」
「ふむ。ではやめるか?」
「ふ……。そなたからそれを奪っては居心地も悪かろう。まいれ」

 背を向けると、自らの衣をはずしにかかる。
 阿栖が見守る中、白い肌がゆっくりとあらわになっていった。



「………ふむ」

 届けられた文を、阿栖はゆっくりと床におろす。
 彼の部屋は狭いが、それでも宛われた邸の中では一番広い部屋なのだ。

「例の、ですか」

 副官が事務的に告げる。詮索はしてこない性格なのだが、阿栖が毎回愚痴をこぼすうちにそう尋ねるのが慣習になってしまったかのようだった。
 
「まったく。叔父上にも困ったものだ。藤森家は藤家の中でも大した家柄ではないのだから、分不相応な願いをせねばよかったものを」
「………ごもっともです」
「だが、それでも……俺も……娘がかわいいのだ」
「……そのような力があるとは思えませぬが」
「だが、夫を失うようなつらい目には遭わせたくないのだ」

 阿栖の娘は、菜実という。強面の阿栖の娘ではあるが、母親に似たためかあまり似てはいない。
 親ばかと言われようと、娘は掛け値なしに器量よしだった。だから、阿栖は出来る限り良い縁を組んでやろうと願っていた。
 だが……阿栖の叔父がそれを許さなかった。藤家の一門でありながら、参議では末席に座らされ、常に風下の立場に甘んじることに我慢が出来ず、当時もっとも妙齢であった菜実に目を付けた。
 皇家の一門との縁組みを持ち出してきたのだ。菜実には平凡で安穏とした家に嫁いでほしいと願っていた阿栖にとって、権力争いの渦中に娘を放り出すことは本意ではなかった。
 だが、藤森家の立場を延々と説かれ、先に参ってしまったのは娘の方だった。
 ある夜、父親の元を尋ねた娘は、自ら縁組みを受けることを告げ、家を出た。
 止める間も磐余もなかった。
 
 だが………。

「阿栖殿」
「……あ?」

 物思いから我に返った阿栖が、副官を見返す。

「国境の見張りを増やす件なのですが」
「あ、ああ」
「ここのところ、妙な一団がまた国境をうろついていると聞きます」
「……ふむ」

 心当たりはある。神奈だ。
 すでに何度か、神奈の居所は移されているが、そのたびに阿栖と、そしてよくわからぬ謎の一団はぴったりとその後をつけてくる。

「見張りを増やすと一人あたりの負担が増える……な。増やす必要はない。だが、見たものは必ず報告するように周知徹底させろ」
「はい」

 一礼して副官が去る。
 阿栖は、再び物思いに耽り始めた。
 
 娘が嫁いだ先は、皇家の中にあって中堅どころだった。あの叔父がよくこんな繋がりを持っていたものだと驚いたが、嫁いだ相手がすでに40を越えた老人だと聞いてさすがに憤慨を感じ、次いで呆れてしまった。
 そうまでして、叔父は立場がほしいのだろうか?
 菜実が生まれたときの叔父を思い出せば、あのしわだらけの(あのころでさえ、だ)顔を、さらにしわだらけにして大喜びしていたものだ。
 娘が生まれなかった叔父の家に、まるで自分の娘が出来たかのように、毎日毎日足を運んでは珍しい食べ物や札を与えてきたものだった……。

 そして、結局天皇が崩御するに至り、次なる天皇に選ばれたのは菜実の夫の息子ではなく、今一人の皇子だった。
 理由は些細なことだった。だが、いずれにしても帝の冠を頂いたのは別の人間であり、結果菜実の夫は彼女とともに能登の方へと追いやられた。
 時折寄せられる文には記されていなかったが、様子を見に走らせた部下の話では、毎日寒さと家事に追われる多忙さにいためつけられながら、それでも老いた夫のために献身的に過ごしているという。
 
 そして、菜実をそのような境遇に追いやったともいえる叔父は、次なる手を打つべく阿栖に任を下したのだ。
 
『翼人の子を藤森家に迎え入れよ』と。

 翼人については、阿栖も話にしか聞いたことはなかった。ただ、それは人であって人にあらず、神通力を用いて人を救い、あるいは人を傷つける存在だという。
 居所を教えられ、与えられた仕事はその娘を孕ませるという任だった。
 
 まだ若くして、妻は先だった。だが、それからまだ10年と経たぬうちにそのような話を持ち込まれて、さすがの阿栖も怒りを禁じ得なかった。
 娘を不幸にしただけでなく、己に不実を……たとえ死んだとはいえ、妻をめとった男に……働けというのか。
 だが、叔父は言う。
 娘は、おまえの働き次第で立場を盛り返すことが出来るやもしれぬと。
 翼人の力を味方に付け、能登の君を天皇と奉る日が来るやもしれぬと。
 
 結局、阿栖は娘が、そして……あんな叔父ではあれど、親族がいとおしかった。
 それ故に、こうして城陽のはずれに邸を宛われて無為に日々を送っていたのだ。
 部下も数名。副官は有能だが、それゆえに彼は何もすることはない。国境に盗賊が現れることもあれば、物の怪が現れることもある。
 だが、それらを見つけ、報告するのが彼の役目であり、退治も調伏も彼の仕事ではなかった。

 ふと、文に目を落とす。
 叔父からの催促だった。
 一日も早く、翼人に子種を植え付けよ。一日も早く、藤森家に栄華を。
 浅ましい文の中に、しかし見慣れぬ一文があることに気づいて、彼は目を落とす。
 
 文を再び地面に放り投げる。
 暮れ始めた部屋の、朱色の光の中で、ため息ともうめき声とも取れぬ声が、壁にこだました。



「……まったく」

 神奈の声が、闇夜の中で苦笑していることを告げる。

「なんだ?」
「そなたは本当にわかりやすいの」

 裸の背をさする、神奈の小さな手が背骨のくぼみをなぞる。

「……何がだ?」
「今度は何があった? そなたが悩むことといえば、例の叔父のことではないか?」

 神奈には、叔父が無理難題をいつもふっかけてくると話したことはある。
 彼の任についてはさすがにふれることはなかったが。

「……よくわかるな」
「わからいでか。そなた、仕事で悩み事を漏らしたことは一度もあるまいが」
「そうだったな」
「で、なんだ? 今度はどんな難題をふっかけてきた?」

 苦笑しながら、阿栖は振り返って神奈を正面から見る。
 布団の上で横になっていた神奈が、一瞬顔を赤らめてから目を阿栖の胸の当たりにおろす。

「……い、いきなり振り返るな。驚くではないか」
「神奈……。おまえは本当に鋭いな」

 手をさしのべると、神奈の漆黒の髪にふれる。さら、と手の中で流れるそれが、ゆっくりと布団へとこぼれていく。
 まるで娘のようだ、と阿栖は思う。
 彼の娘は、老いた夫と閨をともに過ごした時、同じように大切に扱ってもらえただろうか?
 それとも……。

「また誰かのことを考えているのか?」
「…………」

 無意識に、手の中の髪を眺めながらまたうつろな顔をしていたのだろう。
 神奈はそういう彼の表情を見て敏感に心情を察してしまう。
 それは、おそらく翼人の神通力とは関係ないのだろう。神奈という娘の持つ、特色の一つなのだろう。

「……まぁ、な。俺の姫君はなかなか成長しないものだ、と思っていたのだ」
「何を言うか。この間と言っていることが違うぞ」
「そうでもないさ」

 再び、その手を裸の肩に触れて抱き寄せる。焚きしめた香の香りが髪とうなじの当たりから香ってくる。
 熱いな、と阿栖は思う。

「神奈、熱があるのか?」
「…………」
「具合が悪いなら俺はもう帰るぞ。ちゃんと休むがいい」
「この大馬鹿者が!」

 渾身の力を込めて、神奈が阿栖を引き剥がす。

「……なんだ?」
「なんだ、ではないわ、この大馬鹿者。そうやって……」

 引き剥がした阿栖の体を、指先でいじりながら神奈が言う。

「……そうやってされると、恥ずかしいではないか。熱くなっても仕方あるまいが」

 その言葉に、再び阿栖の分身がうごめくと、神奈が呆れたようにため息をつく。

「……そなた……」
「……なんだ?」
「………いや、なんでもない」

 呆れたように、布団の中に沈み込む神奈。
 その背を抱くように、阿栖はゆっくりと神奈に身を寄せていった。



「阿栖殿」

 いつもの副官の声に、阿栖がゆっくりと顔を上げる。
 また居眠りしていたのか?
 夢を見ていた気がするが、いったいどんな夢であったか。

「……なんだ?」
「文をお持ちしました」

 手渡された文を、阿栖はゆっくりと開く。
 副官が一礼して去る。
 誰からの文かは見るに及ばなかった。

 それは、叔父からの通告だった。
 任を解き、周防の地の平定を命ずる。
 
 どういう訳か、叔父は翼人を孕ませる任を彼から解いて別の任を彼に与えようと言うのだ。
 おそらく、業を煮やしたのだろう。元々せっかちな叔父のことだ。
 いつまで経っても神奈が孕んだという報告をしない自分に愛想を尽かし、別の誰か若いのを見繕ってここに送り込んでくると言うわけだ。
 一瞬、菜実の顔が脳裏に浮かんで消える。
 神奈は、また俺以外の誰かに抱かれるのだろう。
 そう思うと、複雑な気分になった。
 
「……阿栖殿」

 再び訪れた副官が、部屋に入り込んでくる。

「出立の準備は出来ました。明日の夜が明ける頃にはでられます」
「ふむ」
「今宵の晩餐に、者どもを集めておりますが」
「それはそなたに任せよう。俺はまだ行くところがある」
「…………」

 文を一瞬ちら、と見たところからして、副官もまた、彼が神奈を孕ます任を解かれたことを知っているのだろう。

「……文句あるか?」
「いえ」

 一礼して、副官が下がる。
 頭が固いか柔らかいか、わかりづらい奴だな、と思いながら阿栖は再び空を見上げる。
 暮れるにはまだ早い。今出向くのは無意味なことかもしれない。
 だが……暮れてからでて、戻ったのではおそらく間に合うまい。
 
「おい」

 副官を呼ぶと、まるで控えていたと言わんばかりに副官が部屋に応じてくる。

「はい」
「出かける。饗宴その他のことはそなたに万事任せるゆえ………」
「…………」
「………あー」
「…………」
「後はよろしく」
「…………」
「そう怒るな。出立までには戻るから」
「…………」

 副官がため息をついて姿を消し、居心地の悪さを感じながら阿栖は身支度を整える。
 今からでて、暮れるまでについて……。
 …………
 
 それから、どうしたものか。昼日中から忍び込めるほど、甘い警備をしているとは思えない。
 まぁ、いい。
 ついたら考えよう。
 そう考えた阿栖が、邸から姿を消す。
 残された副官が、その丸見えの背を眺めながら、ため息をついた。