流離(後半) |
原案・でくの 文・水橋真琴 |
「……呆れたな」 その言葉は、神奈と阿栖の両方の口から聞こえてきた。 「……そなたは何に呆れておる?」 先に口を開いたのは神奈だった。 「……警備だよ。重要なところを見張ってる者は居眠り。まじめな者はあさっての方向を見てる。まるで素人の集団だ」 「ああ、そのことか」 神奈が苦笑しながら答える。 「……余は詳しいことは知らぬ。だが、皆がやる気をなくしておるのはわかっておる。……まぁ、それは致し方なきことだと思っていたが……」 「………そうか」 「しかし、阿栖の口からそれを聞くと深刻なことのような気がしてきたわ」 「そうだな……。俺がもし賊だったら、おまえは今頃手込めにされてることだろうな」 「……ふむ。その点では間違いではないようだの」 不意に身を引き剥がして、両手で身体を抱く仕草をする。 「……なんだよ」 「いや、賊なら余は今頃手込めにされておるのかと思って寒気を感じておるだけじゃ。ああ、怖いのう」 「なんだそりゃ」 「いや。そういえばそうじゃったと思ってな。こうやって賊は進入するものなのだと認識したまでじゃ」 呆れたようなため息をついた阿栖を見て、むっとした顔の神奈が詰め寄る。 「なんじゃ、その顔は」 「いや。賊にも選ぶ権利はあるんだろうと思っただけだ」 「なんじゃと、この無礼者め。それが女子に向けて言う言葉か」 神奈の困ったところは、怒ったときの手加減のなさだろう。 小さな拳で殴られたところで痛いと言うほどでもないのだが、その勢いがつきすぎてつい神奈を巻き込んで床に倒れ込んでしまう。 ごとん、と大きな音がして、一瞬邸の中の気配が総毛立った。 「ちっ!」 いつもなら布団に隠れるところだが、この時間ではまだ布団も用意されておらず、阿栖は隠れる場所を求めて一瞬目を泳がせる。 「何を考えておる」 思わず大きく息をつきそうになる衝動を抑えながら、阿栖がゆっくりと身を起こす。 「何がだ」 「大きな音を出すな。木霊が驚いて起きてくるぞ」 「そうか?」 「そのくらいのこともわからぬか。全くもって益体なしじゃの」 「ぶっ」 思わず吹き出した阿栖が、神奈の顔をまじまじと見る。 「……神奈……」 「ん?」 「意味、わかってるのか?」 「役立たず。そういう意味であろ?」 「い、いや……」 もう何度目か、呆れたようなため息とともに阿栖が首を振る。 「で、神奈。なんでお前は呆れたんだ?」 「ああ。そなたに呆れたのだ。こんな明るいうちから、いったい何用かと思ったぞ。よもや賊のまねごとをしにきたのではあるまいな」 「…………」 「ああ、だがいつも似たようなことはされておったな。今更おそれるほどでもなかったわ。で、何用だ?」 急に話題を変えられて一瞬鼻白んだ阿栖ではあるが、すぐに気を取り直して神奈に向き合う。 「神奈、少し俺はここを離れることになる」 その言葉に、ほんの一瞬だけ不安そうな顔をした神奈が、すぐに気を取り直して言う。 「なんだ。仕事か?」 「ああ。周防の海岸の防人にでることになった」 「周防……とはどこだ?」 「国の端だ。海に囲まれたところで……そこでしばらく滞在する」 「海か……。海とはいかなるものだ?」 「………海、知らないのか?」 「余は見たことはない」 少しうつむいた神奈が、もう暗くなり始めたあたりを見わたして、それからまた阿栖に目を向ける。 「海か……。そこに行けばまた阿栖にあえるのだな」 「…………」 「余も、たぶんまた居所を移されるのだろう。今日、つづらを抱えた女官達が歩いているのを見ておった」 「……」 「だが、そなたはいつでも余に会いに来てくれたな。どこに移ろうと……」 「まぁな」 彼の叔父がもたらす情報がなくてはそれもおぼつかないのだが。 「まぁ、また逢いたいときにはそなたは来てくれるだろうしな」 背を向けた神奈の肩がかすかに落ちている。衣の上からでもわかる華奢な身体が、今は一掃華奢に見えて少し阿栖が不安になる。 「また……来るよ」 背を向け、御簾を持ち上げようとしたとき、不意に神奈が手を伸ばし、阿栖の衣の裾をつかむ。 「………阿栖」 「ん?」 「……もう帰るのか?」 「あ、ああ。明日の朝出立だからな」 「まだ、その……少し、時間はないか?」 神奈が顔を上げて見ている。目を見返すと、照れくさそうに目をそらす神奈が、今はまるでその目に焼き付けようとするかのように、じっと見ている。 「……まぁ、すぐに帰らなくてはならないほどじゃないよ」 御簾にかけた手を離すと、心底ほっとしたような顔で神奈が身を預けてくる。 妙にしおらしい仕草と、不安げな顔につい阿栖の分身が反応してしまう。 「……」 「………」 「いや、その、だな……」 言い訳の言葉も見つからず、顔を赤らめて見上げる神奈にしどろもどろな答えを返す阿栖。 だが、神奈はそれ以上何もいわず背を向けると、寝具をその手でのべ始める。 「……神奈……?」 「…………」 「………神奈………」 「少し待てというに」 決して動きやすい衣ではない。だが、それでも一心に身体を動かして畳の上に寝具をのべていく。不格好ながら、ようやく整うと、神奈が振り返ったのを気配で感じる。 ……いつしか、外はとっぷりと暮れていた。 「……そのままで帰るのはつらかろう?」 「………」 「まいれ」 言われるままに、阿栖は衣を脱いでゆっくりと神奈の元へと足を運ぶ。 かすかに、本当にかすかに残る陽光の残滓が、白い裸体をより白く写す。 その顔に浮かんだ不安そうな表情が、その美しさをさらに引き立てている気がする。 「……神奈」 「阿栖。……はようまいれ。寒い」 阿栖の手が伸びてくると、神奈の細い肩を抱き、やがて身体がゆっくりと一つに重なっていく。 二人がつながった頃にはすっかりと日が暮れ、二人の姿はぬばたまの闇に隠れた。 「……神奈」 「なんじゃ?」 物憂げに、神奈が顔を上げる。 その顔の前に、丸いものがいくつか連なった、不思議な物が差し出される。 「……これは……?」 「音無鈴(こなれ)だ。……今まで俺を守ってくれたお守りだ」 「………」 「お前にやろう」 手を伸ばした神奈が、少しうれしそうな表情を見せる。 「い、いいのか?」 「ああ。身につけておくと災厄から守ってくれる」 「………」 「まぁ、それに、これはずっと俺が身につけていたものだしな」 神奈が、紐を通した音無鈴を袖にくくりつけようとするが、うまくいかない。 片手を使って片手に物をくくりつけるのが容易ではない。それを見てとった阿栖が、手を差し出す。 「ほら、貸せ」 そういうと、神奈の髪を留めている組み紐を手に取る。 「……ここに通してやろう。……ほら、こんな感じだ」 「………」 「これなら、いつでも俺はお前のそばにいるぞ」 「……そなた自身がそばにいてくれた方が嬉しい」 ぽつり、とつぶやいてから、神奈はしまった、と言った顔をする。 「い、いや、何でもないぞ。……だが、それは確かにきれいな物だ。似合うか?」 組み紐で髪をまとめると、神奈が阿栖の方を見る。 「音が鳴らないのだな」 「だから音無鈴と言うんだ」 「なるほど」 小さな手で、何度も何度も音無鈴をなぞるようにする神奈。それを見守る阿栖。 「……明日には、出てしまうのだな」 「ああ」 「次はいつ帰ってくる?」 「そうだな……」 任を解かれたことは口には出せない。 「また来るさ。そう遠くない」 「今度は余から会いに行こうか?」 「無理を言うな」 「だが、ほら、海だ。海に行けば会えるのだろう?」 「まぁな」 「なら、会いに行くぞ。何、女官どもに聞けば海の場所ぐらいは知っているはずだ」 「だろう…な」 ゆっくりと、立ち上がる阿栖。 それをまた、神奈が見上げる。 今度は衣の裾をつかむことも出来ない。 「……もう行くか?」 「ああ」 「そう……か」 手を伸ばし、神奈の細い髪に手を宛い、ゆっくりとゆっくりと、何度も髪を梳いてやる。そうすると無意識に神奈は目を細めるのだ。 「……阿栖……」 「ああ」 「……今度来たときに、音無鈴の礼をするぞ」 「……楽しみにしてるよ」 阿栖の手が神奈の髪から離れる。 それを見送る視線が、名残惜しそうにその掌を見つめる。 明日にはその手は、違う何かを持って旅路を行くのだろう。 それでも、また会える。 神奈が目を伏せる。かすかに気配が揺らいで……。 目を上げた神奈は、誰もいない空虚な闇を、しばらく見つめていた。 |