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相沢祐一


 7年ぶりの街は、優しかった。
 でも、記憶を持たない自分には、その優しさがたまらなく不安だった。
 学校でも、家でも、誰もが俺を受け入れてくれる。
 それは確かに名雪のおかげで、そのこと自体は感謝しているんだが、すべてがまるで俺が来ることを知っていたかのような…自分がこの街から離れることはないと思い知らされているような、そんな寂寥感を抱くようになってしまっていた。

「教科書だったら、オレのを見せてやるぞ」
 その声がかかったとき、一瞬俺は『またか』と思った。
 また、名雪の知り合いがお情けをかけようとしてるんだろう…そう思った。
 だが、その考えは違うと、すぐにそいつのセリフで思い知らされた。
「普通は突然の転校生と言ったら美少女と相場は決まっているんだぞ」
 悪びれず、まっすぐな言葉。
 本来なら、たいていの男子生徒が思うだろうセリフ。
 それを聞く事ができて、俺がどれほど安心したか…。
 …その時から「北川 潤」の名前は、俺の中に深く刻まれた。

「一緒に帰るんだよ」
 1月14日。
 名雪に悪気がないのはわかっている。名雪が、純粋にそうしたいと思っていることもわかる。だが、そうすることがまわりにどんな感情を抱かせるのかを考えて行動して欲しかった。
 …約束をした帰り道、何かが俺の心に引っかかっているのを感じた。
 名雪が悪いんじゃない。
 名雪が嫌いなわけじゃない。
 ただ、何かが引っかかる。
『そのつもりだったけど、やっぱり学食でなんか食ってから帰るわ』
 そう言ってそそくさと教室を出ていった北川…。多分、その北川の態度が気にかかっているんだというのは、自分でもわかっている。
 ただ……。どうしてそれが引っかかるのか、皆目見当もつかない。
 何でそれが引っかかるのか、北川の何が心に引っかかるのか…。
 わからなかった。
 少なくともその時の俺には、わかっていなかったんだ。

 イライラすることが多くなった。
 知らない女生徒が俺の名前を、さも昔から知っていたかのように口にする度。
 それまで話をしていた相手が、名雪が来た途端去っていく度。
 俺は自分の心が狭くなっていくのを感じた。
 …それらが小さな事なのも、自分が悪い方にばかり物事をとらえているからなのもわかっていた。
 だけど、そのイライラを沈めることが俺には出来ないでいた。

「相沢君、最近どうしたの? 名雪が気に掛けていたわよ」
 そんなときに香里が声をかけてくれたのは、素直にありがたかった。
 名雪の為なのかも知れなくても、俺にはありがたかった。
 そして、俺はありのままの気持ちを口にして、香里に相談に乗って貰った。
「相沢君…自分の気持ち、わかってる?」
「ああ…たぶん、そういうことなんだと思う」
 話すことを話しているうちに、自分でも何が自分に起こっているのか、何が原因でこんな気持ちを抱えているのか、だんだんとはっきりしてきた。

『名雪の幼なじみ』
 そんなフィルター越しに、みんな俺のことを見ている。つまりは、俺自身で勝ち得た関係は、どこにもないんだ。
 …北川との事を除いて。
 北川は、アイツだけは、俺自身を見ていてくれた。

「そう、俺はあいつが…北川のことが、好きなんだと思う。恋愛の対象として」
 北川の名前を口にすると、身体の芯が熱くなる。
 耳が火照っているのもわかる。
 好きだ、と口にすると、今まで感じたことのない誇らしさが、胸を埋め尽くす。
 …どうしてそうなってしまったのかはわからない、でも、この感情は…恋、以外の何物でもない。
 北川が誰かと仲良くしていたり、まわりが俺と名雪をカップルかのように見ていると感じたりする度、俺はいたたまれない思いを味わう。
 北川が俺と馬鹿なことを言い合っている時間は、その時間に終わりが来ることがおかしいとさえ思う。
 俺は…北川が……。
「………相沢君」
 香里は、真っ直ぐに俺の目を見た。
 俺も、香里の目を真っ直ぐに見た。
「協力、して上げるわ」
 香里の口から漏れた言葉は、思いもかけない物だった。
「どうして…? お前、北川と仲が良いんだろ?」
「仲が良くても、別に恋人同士ってわけじゃないし。このままだと、あなたの方がおかしくなりそうだしね…」
 香里はそう言うと、右手を顎に軽く当てて何かを考え出した。
「そうねぇ…。私が、北川を呼び出すわ。そうしたら後はあなたが、好きなように想いを伝えればいいと思う」
 一瞬、言葉が出なかった。
「良いのか? それで…。今の俺が気持ちを伝えるっていったら…」
「強引なことをしそうね、確かに。そうしたら名雪も泣くと思うわ。あの子、自分で気がついていないのかも知れないけど、本当にあなたのことを好きだから」
「だったら……」
「……それに、北川自身も………驚くでしょうね」
「驚くとかで済むか?」
 香里が考えていることは、大胆だ。だが、とんでもなさすぎて、俺には現実感がなかった。ただ香里が、俺は北川を好きだという感情を肯定してくれたのが、嬉しかった。
「私としては、ぶつかっていくことを薦めるわ。今のままなら、どうであれまわりに悪影響を及ぼすでしょ? だったら、はっきりさせるのが一番早くて良いと思う」
 香里の言葉を聞きながら、俺の中で気持ちがはっきりと固まっていくのが分かった。
 北川がどんな顔をするのか…それは確かに恐いけど、それ以上に今は、北川に……。
 北川に、想いを伝えたい。
「…やってみようと思う」
「だったら、計画を作っておくわ」
「でも香里、どうしてお前は協力してくれる気になったんだ?」
 思案顔で窓の外を眺め、こちらに背を向けた香里の表情は見えなかった。
「…叶わない想いは、…届かない願いは、少ない方がいいからよ…」
 香里の声は、いつもより低い気がした。

 香里の計画を実行できる日は、それからさほど待たないうちにやってきた。
 夕焼けに染まる校舎で、自分一人しか居ない教室で、俺は北川を待った。