遠からじ春
頭を大きく振った。…そうしなければ涙がこぼれてしまいそうだったから。
手に握りしめた退部届けに、幾筋かのしわがついているのを感じた。
冷え切ったリノリウムの床を、七瀬は裸足のままで歩いていた。
芯まで通る冷たさを感じながら、灯りのついた教室を探して彷徨っていた。
その表情はどこか虚ろで、そのくせ足取りは確かで。灯りの漏れる教室をノックして覗いては、頭を下げて次の教室へと向かう。
「寒い、なぁ…」
そうつぶやいた七瀬の背中に、柔らかいものがぶつかる。
「留美! 捕まえた!」
黒い前髪から覗く白い肌。大きな黒目がちの瞳。
「由美……」
その小さな肩を抱くと、七瀬は崩れるようにもたれかかった。
「良かったね、保健室が開いていて」
白く薬品くさいベッドに横たわった七瀬の側に椅子とファンヒーターを置き、由美は腰掛けた。
「どうして、こんな時間まで校舎にいたの?」
右腕を目に押し当てたまま、七瀬が尋ねる。
「うん…っと…、早く帰るつもりだったんだけど、留美に挨拶していこうと思ったら、体育館で何かやっていて…」
無言で、七瀬は由美の話を聞き続ける。
「で、葛西先輩、探して、話したら先に行かれちゃって…」
先輩の名前が出たところで、大きい反応を示す。
「後を追いかけていたら、留美を見つけたから…」
腕を目から放すと、七瀬の瞳には心配そうにのぞき込む由美が写った。
乱れた髪を撫で、優しい眼差しで七瀬に付き添う由美は、天使か聖母のようだった。
その手のひらの暖かさに、七瀬の頬を再び涙が伝った。
「だって、七瀬は横暴です!」
元部長である葛西に、男子部員が次々と今までの不満を訴えた。
「だからといって、こんな事していいのか?」
葛西の怒鳴り声に、一同は俯いてしまった。
「…俺は七瀬を探しに行く。お前達は片づけをしておくように」
そう言い残して、葛西は体育館を去った。
その背中を見送った後、男子は口々に文句を言う。
「でも、この位しないと…」
「だって、なぁ…」
はっきりしない言い方の男子へ、女子が詰め寄る。
「私たちは、とうの昔に七瀬を部長だと認めているの! だから、私たちも七瀬を追いかけるからね」
そういうと、女子も葛西の後を追いかける。
広い体育館の中、取り残される形になった男子が、ぽつぽつとつぶやきはじめる。
「そういわれても、なぁ…」
「でも、さ、七瀬、かっこよかったよな…」
「あ、それは俺も思った。最初時の面なんか、あんなにきれいに決めるヤツ見たこと無かったし」
「2人目との戦い方も、参考になったよな…」
そこまで言ったところで、3人目の選手が口を開いた。
「俺、七瀬から一本取ったけど、以前より竹刀の振りが早くなっている気がしたんだ」
「……」
一同が押し黙る。
「それって、やっぱり、七瀬のおかげだと思う」
沈黙を破って、先程の3人目が話を続ける。
「追いかけるか」
誰ともなくそう言うと、皆頷きあった。
こうして、体育館には誰もいなくなった。
「由美ってさ…」
「うん」
「こういうところでは、頼りになるよね。いつもあたしの後に隠れるくせに」
「そうでもないよ」
ベッドから体を起こして、二人はヒーターに手をかざした。
「留美のことだけだよ、私がこんなに動くのは」
程々に暖まると、七瀬は背伸びをしてベッドから降りた。そして再び封筒を握りしめた。
「届けに行くよ、これ」
「留美がそう思うなら、それも良いと思う。私も付き合うよ」
ヒーターの電源を切ると、由美がいつものように七瀬に付き添った。
「留美ったら、考えて教室はあけなきゃ。剣道部の顧問の先生って美術部と掛け持ちなんでしょ? だったらまずは美術室を見に行かないと」
由美に手を引かれて、七瀬は薄暗い廊下を歩いた。
階段を上がり、長い廊下を進んで、突き当たりの美術室。そこからは未だに灯りが漏れている。
顔を見合わせて頷くと、七瀬はドアをノックした。
「おぅ、入れ」
「失礼します」
「で、退部したいんだな?」
「…はい、私は腰も痛めているし、部長も荷が重すぎます」
薄くなった頭の顧問は、白い封筒を手の中で何度もひっくり返した。
「なるほど、じゃ、この退部届けは…」
おもむろに顧問はその封筒を二つに破った。
「!」
「遅かったなぁ、七瀬。他の部員はずっと待っていたんだぞ」
丸い目をした七瀬の前に、美術室の奥から剣道部員達がぞろぞろと現れた。嬉しそうな女子、ばつの悪そうな男子、そして最後に険しい顔の葛西。
「みんな言ってるぞ、お前に部長でいて欲しいって」
はっきりと頷く女子、テレながら俯く男子、表情を険しいままで頷く葛西。
「だから、退部されると困るんだ。続けてくれ、七瀬、な?」
「は、はい!」
感動のシーンが広げられている美術室の外で、由美は安堵の溜息をついた。
暗い廊下。3人の人影。七瀬と、由美と、葛西。
「何かあったら教えてくれないとダメじゃないか。今回は由美ちゃんのおかげで知ることが出来たけど」
怒られて頭を垂らす七瀬。その態度に何か思うところがあったのか、由美が突然両手を打った。
「そういえば、私教室に忘れ物があったんだ。留美、昇降口に行っていて」
あからさまな空笑いをしながら、七瀬の返事も聞かずに走り去ってしまった。
「ゆ、由美ったら…」
暗がりだからこそばれずに済んでいるが、七瀬の頬は赤く染まっている。
「本当に恥ずかしがりなんだね、由美ちゃんは」
由美の背中を見えなくなっても追いかけるような葛西の眼差しに、七瀬の胸は少しの痛みを覚えた。
「でも、七瀬、良くやったな。やり方は悪かったけれど」
「すいません…」
「叱っているわけじゃないんだ。これからも、頑張れ」
七瀬の真っ白くなる頭の中で、落ち着けと言うセリフが木霊する。動悸が激しくなるのを、ばれないようにと。
「あ、私たちも早く昇降口へ行きましょう、由美が待っているし」
ぎこちなさを自覚しながらも、七瀬はごまかすように葛西の前を歩く。
「七瀬?」
「はい?」
呼ばれて振り向いた七瀬の目の前に、葛西の顔があった。
「髪、伸びてきたな」
それだけを言うと、葛西も昇降口へと走り出した。
その後を追いかけながら、七瀬は由美の前でにやけないよう自分に言い聞かせた。
3年生が卒業する前に、近所の学校の剣道部と親善試合が行われた。
戦歴はそこそこだったが、部員は実力が伸びたことを実感していた。
「七瀬部長、雑巾がけ手伝いますよ」
いつの間にか、片付けも練習もサボる部員は減り、七瀬を「鬼」と呼ぶものも居なくなっていた。
「変わったよね」
由美が七瀬の隣を歩きながら話しかける。
学年が上がってから、由美は剣道部のマネージャーを務めるようになっていた。顧問からの要望と家裁からの要望で。
由美は習い事をいくつか減らして、懸命にマネージャーを務めた。
新入部員の男子の中には、勧誘の由美の笑顔につられた者も多い。そして女子の新入部員は…。
「七瀬せんぱーーいっ!」
黄色い声が響き、七瀬は今日も後から抱きつかれている。
「ぐあっ」
後から抱きつかれて動けなくなったところを、両腕を抱きつかれどうも抱きつかれる。気を抜けば更に胴に抱きつかれるので、気が抜けない。
「モテモテね、留美」
「女の子にもてても嬉しくないっ!」
「ひどい、七瀬先輩ったら。でもそのクールさがステキ」
「良いから離れろぉぉ〜〜〜」
七瀬も忙しい模様だ。
葛西は進学先が近いため、良く部活を覗きに来る。
何もかも順調だった。
春、新入生を連れての大会も、賞状を貰えるくらいまでに勝つことが出来た。
夏、3年最後の大会も今までよりも良い成績を納め、打ち上げパーティーでは顧問が大判振る舞いをした。
そして、秋。
赤いリボンの端を持って、長さを整える。
「うん、こんな感じ」
手慣れたもので、由美は片手で鏡を取り出す。
その平らな世界に写ったものは、見知らぬ少女だった。
「リボンが付けられるくらいまでよく伸ばしたよね。面とかつけるときは邪魔だったでしょ?」
喋りながら、前髪やうなじの髪を櫛で梳いてピンで留める。
「ピンクのリップも似合っているよ、留美」
覗いていた鏡を伏せ、七瀬は振り向いた。左右で縛った髪に、由美から借りたリボンを付けて貰っていたのだ。
「なんだか、自分じゃないみたいで恥ずかしいんだけど…」
赤くなる七瀬の頬を、由美は両手で包んだ。
「ううん、それが留美だよ。前にも言ったでしょ? 留美は可愛いんだって」
『髪を伸ばして、リボンを付けろ』
『そうすれば違う幸せがお前を待っているよ』
先日言われた葛西のセリフを思い出しながら、七瀬はもう一度鏡を覗いた。
自分の知らない自分、自分の知らなかった自分。
…なれると思っていなかった、自分。
それが、鏡の中にいた。
「もう少し早く、気が付いていたら良かったかな」
「え?」
冬。
引越が決まったのは急な話ではなかったが、七瀬にはそれをうち明けることが出来ない時間が長かった。
由美と話をする時間、葛西と会う時間、それぞれに楽しく、手放したくない時間だった。
そう思っているのは、七瀬だけではない。その事を信じているからこそ、七瀬には言い辛かった。
楽しいその時間に終わりがあることを、信じたくもなかった。
自転車の後に由美を乗せて、葛西は七瀬の見送りに来た。
小柄な由美を抱えて荷台から下ろすと、息を切らせながら七瀬を問いつめた。
…七瀬には、そんな二人が眩しかった。
「先輩、私は、可愛いですか?」
そう尋ねた七瀬に、葛西は笑顔で頷く。
「ああ、可愛いよ。七瀬なら必ず、幸せを見つけられる」
由美は自分の髪をほどくと、使っていたリボンを七瀬に手渡した。細く黒い髪がさらりとこぼれる。
「これ、似合っていたから、私だと思って持っていって。もっと早く言ってくれていたらいいものを買ったのに」
リボンを握りしめると、七瀬は由美の頭を撫でた。
手で持って行く分の荷物を積み終えた七瀬の父親が、二人に挨拶する。
そして、一つの時間が終わりを告げた。
揺れる赤いリボン、軽快な足音。慣れない道を所々迷いながら走る。
唇にはピンクのリップ、フローラルのコロンを首筋につけ、準備を整えたのに半分ほど台無しになりかけている。
少女は走る。
自分の時間を廻す相手に巡り会うために。
待っているはずの今までとは別の幸せを、追いかけて。