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蕾の花


 黒髪と共に揺れる赤いリボンが、歩幅に会わせて小さく上下する。
 小さな靴、小さな足取りで、少女はようやく目的地に着くと、目の前の重い扉を開いた。

「留美、居ますか?」

 寒稽古終了の悲鳴と愚痴が体育館の中に響き、開けた窓を閉める剣道部員達の吐く息が白い。
 その中で、七瀬留美は汗に塗れた床を雑巾で拭いていた。
 雑巾を絞る手の赤さが、水の冷たさを物語っているのに、少女にはかすかに笑顔さえ見える。
「絶対サドだよなぁ、鬼七瀬は」
「いや、自分だって人以上に辛いはずだから、きっとマゾだぜ」
 部員達が自分の防具をしまいながら七瀬のその様子を見て、あれやこれやと言いあう。
 が、当の七瀬の視線が自分の方へ向こうとすると慌てて作業をするふりをする。
 …そんな見え透いた行動にも、七瀬は諦めたような溜息一つで済ませ、また雑巾を絞る。


 少女は困っていた。
 自分は友人を呼びに来たのに、どうしてこんな事になっているのだろうか、と。

「東山さんに会えるなんて、剣道部やっていて良かったー」
「こんな早くから学校に来るなんて、東山さん真面目だよねー」
 自分のまわりにはいつも人垣が出来る。自分の一体何が面白いのだろうかと不安になりながら、声をかけられれば笑顔を返す。
「あの、私、留美を迎えに来たんですけど…」
「留美? 誰だっけ?」
「部長やっているって聞いてますけど…」
 そこまで言うと、取り巻いていた人達が一様に口をつぐむ。
 何か悪いことでも言ってしまったかとハラハラしていると、聞き覚えのある声が間近から聞こえた。
「こぉら、あんた達! 由美を取り巻いて何やってるの!!」
 その声に人垣は千々に散った。
「鬼七瀬だぁ〜〜!!」
「あんた達、夕方の練習時に校庭10周追加!」
 良く通る声の、自分の友人の横顔に、ようやく安心を得た。


「由美、部活には顔出さない方が良いって言ったでしょ」
 女子更衣室に招かれ、少女…東山由美は自分の親友の言葉に頷いていた。
 更衣室内だというのに、由美と七瀬にちらちらと視線を走らせる女子部員達が居る。
 もっとも、それは仕方のないことで、学園一の美少女と名高い由美と「鬼」と言う単語をつけて呼ばれる七瀬とが親しげに話をしているのである、その取り合わせは興味を充分にそそらせる物だった。
「この更衣室だって、あんまり入れたくないのに。汗くさいでしょ?」
「ううん、そうでもないよ」
 面をとるときには蒸れるほど汗を流しても、女の子は制汗スプレーを使う。そのおかげで、女子更衣室は比較的(比較対照・男子更衣室)さわやかではある。
「それより、留美、私って何かおかしい? どうしていつも、みんな私のまわりに来るのかな?」
「それは、由美が可愛いからでしょ?」
「可愛い? 私、留美だって可愛いと思うんだけどなぁ」
 上着を被る状態の途中で、またはスカートのジッパーを上げる途中の姿勢で、数人の女子部員がロッカーに突っ込んだ。
「何よ、そんなに大きいリアクション返さなくったって良いでしょっ!」
「大丈夫ですか? みなさん」
 素早く突っ込みを入れる七瀬と、ゆったりと自分のカバンから絆創膏を探す由美。
 …何でこの二人が一緒にいるのだろうかと、その場にいた部員達は思い悩んだ。


 始業15分前。
 七瀬が体育館の鍵が閉まったことを確認するようにノブを回すと、その背中を大きな手が叩いた。
「頑張ってるね、七瀬」
 その声に振り向いた、七瀬の顔色が和む。
「主将!」
 カバンを肩にかけるように持つ手は大きく、体つきも大きくはないががっしりとし、笑顔は人なつこい青年。
「もう主将じゃないよ。もちろん、部長でもない。部活、頑張っているみたいだね。ところで、そちらのお嬢さんは?」
 その人物の登場時から、由美は七瀬の背中に隠れてしまっていた。時たま七瀬の背中越しに顔を出しては引っ込める動作を、すでに何度も繰り返しながら。
 しかも、隠れているつもりかも知れないが、頭に着けたリボンが大きくて丸見えになっている。
「由美………」
 頭を片手で押さえながら、七瀬は由美の肩を掴む。
「……自己紹介くらい、できるわよね?」
 怯えた眼差しで七瀬を見上げ、伺う眼差しで男子生徒の顔を見ると、由美は観念したように小さな溜息をついた。

「東山、由美です」

 か細い声。うつむきがちに視線を逸らしながら、頬を朱に染めながら、由美はようやく名前だけを口にした。
「えっと……僕は葛西弘之、3年の元剣道部員だよ」
「まだ剣道部員です、主将…じゃなかった、先輩は」
 由美は仰ぐように七瀬を見上げる。その瞳はうっすらと涙がにじんでいる。
「えっと、こっちは東山由美、私の幼なじみで同じクラスなんです。ちょっと人見知りが激しくって。…由美、先輩は夏まで部長だった人だよ」
 説明を受けて、ようやく由美は七瀬の隣に出てきた。
「宜しく、由美ちゃん」
 葛西の右手が由美の前に差し出される。
 それと葛西の顔を交互に見て、由美もおそるおそる手を出した…が。

「葛西先輩だ〜〜〜っ!!」

 複数の少女の叫びに、由美の手は後へと隠されてしまった。
 どこからか現れた少女達にあっという間に囲まれて、葛西との距離も開いてしまった。「ごめん、また後で」
 そういいながら、葛西は女の子達を誘導するように去っていった。
 女の子と葛西の声が風に乗って聞こえてくる。
「先輩の好みってどんな人なんですか?」
「好きになった子が好みだよ」
「ええ〜、この前は髪の長い子だとか、頑張る子だとか言っていたのにぃ」

「…葛西先輩も、大変そうだね」
 取り巻きの笑い声が遠くなるのを見送ってから、七瀬達は渡り廊下を進んだ。
「先輩、もてるから」
 そういうと、七瀬は廊下の時計に目を走らせた。

 …始業10分前。たった5分の出来事だった。