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積雪の季節


 冬の日はつるべ落としと、昔の人は言った。
 七瀬は今、その言葉を実感していた。

「さぼるなぁっ! そこの男子!!」
「ランニングさせられたんだからちょっとくらい良いじゃないか〜」
 竹刀の片づけを後輩にやらせようとした男子に、七瀬の喝が飛ぶ。
「今度は両手に砂の入ったバケツ持って、ヒンズースクワットさせるよっ!」
 舌打ちすると、男子生徒は急いで竹刀を抱えなおした。
 朝の時に軽口を叩いてランニングさせられているところへ、ヒンズースクワットの話を持ってこられたことは効いたようだ。
 その姿を見て軽く頷くと、七瀬はまた雑巾を固く絞った。

「腰を痛めたくせに、どうしてあんな鬼七瀬が部長なんだろうなあ」
「そりゃ、部員で一番強くて基本知ってるからだろ。怪我したのは確かなのに、それでもうちの部で七瀬から一本取れるヤツ居ないし」
 自分の分を片づけした部員が、着替えながらいつもと同じ事を愚痴る。
「七瀬も強いけど、俺達が弱いって事も大きいよなぁ、一本も取れないっていうのは」
「前の部長の時は、部長が試合に勝ってくれたし、部活自体はもっと楽だったからなぁ」
 剣道部員の最近の愚痴は、だいたい同じものになってきている。部長が代替わりしてから練習がきつくなっていることと、もう完治すること無い怪我をしていながら部長を務める七瀬への批判が、主だった内容だ。
 特に、最近は七瀬の厳しさに対する愚痴が多い。
「どうしてあんなに、七瀬はきついことやらせるんだろうな」
 部員達は頭を突き合わせるが、答えが出た試しは無い。


 夕闇にも、その赤色は映えていた。黒髪に揺れる大きなリボン、黒目がちの瞳に写る宵の明星。
 今度は怒られないようにと、由美は渡り廊下手前の校舎内から、体育館の様子をうかがった。
 時折響くかけ声が、幽かに聞こえてくる。その中でも一際大きいのが、七瀬の声だとわかる。
 由美を叱るときと同じはっきりとした物言いは、良く通る声に乗ると効果が倍増している。
 その変わらない態度に、由美は笑みをこぼす。

 だが、剣道部には笑みをこぼすような部員は、一人も居なかった。

「だから、やってみる価値はあると思うんだ」
 ファーストフードのドーナツをかじりながら、男子部員の数名が集まって談合をしていた。
 その人数は、剣道男子部員の約半数にも登る。
 もっとも、大きなテーブルを占領してるので、端に座っているメンバーにはあんまり話が届いていないようだが。
「でも、相手は鬼だぜ。失敗したら八つ裂きにされたあげく食われるぞ」
 一人の言葉に、一瞬しんとなる。
「い、イヤ、食われはしないと思うけど」
「食われなくても、八つ裂きはあり得るな」
「今度は42,195キロ走れって言われたら、正直泣くよ」
 一同がうなる。…と、ここまでは毎日同じことの繰り返しなのだが、その日だけは勝手が違った。
「一回、試してみるか」
 ぽつり、と一人が言った。
「この間の話か?」
 一段と声を落として、他が問う。
「七瀬に、部長から落ちて貰う」
 普段ならば無理だと諦める話を、その日に限って皆はまじめに考えだしてしまった。


 翌日。
 朝から冷える床の上で、七瀬は素振りをしていた。朝練には、女子部員しか顔を出していない。が、風を切ってうなる竹刀の手応えに、七瀬は集中していた。
 冷えた空気の中、面を着けない七瀬の額から飛び散る汗が陽に煌めく。

「朝練終わり〜! 片付けはやっておくから、みんなは先に着替えて」
 その声に女子部員達は更衣室へと立ち去る。
 いつもより手早く雑巾を絞る七瀬の前に、複数の影が落ちる。
「遅いぃ! 朝練終わってるっ!!」
 顔を振り仰ごうとした七瀬の眼前を、振り下ろされた白い紙束が掠めた。
「退部届けだよ、鬼七瀬」
「…え?」
 何通もの白封筒が重なって出来た紙の束。その表には漢字が3文字。
「退部、届…?」
 呆気にとられた七瀬の顔を見るのは、部員達にとってははじめてのことだった。
「そうだよ。ただし、アンタの分だ」
 床にはいつくばった七瀬と、見下ろす男子部員。
 伸びかけの乱れた黒髪が、七瀬の肩にはらり、とこぼれた。