雨上がりの前に |
天気予報どおりに、乾いた土へ雫が潤いを与える。 時折吹き抜ける風は湿気を含み、気温を幾分下げていた。 いつもと同じ傘を持ち、工事中の看板を見ながら、頭の中では別のことを考えていた。 『僕は、永遠の世界から来たから』 彼の言葉が、頭の中を巡る。 信じられない話だけど、それを言うなら私だって同じだろう。 『もう、時間がないんだ』 昨日直接会って聞いたときよりは、ずっと記憶が不鮮明になっている。まるで、夢の中の出来事のように。 もっと記憶が薄れれば、夢だったと思うかも知れない。 …そのこと自体が、彼の言葉が嘘でないことを証明している。 あいつの時と、同じだから。 「あなたも、この世界が嫌いなの?」 小さく首を横に振り、儚げな笑みを口元に浮かべたままで、彼は話をしてくれた。 「この世界は嫌いじゃない。でも、僕がここにいれば、帰って来られない人がいるんだ」 彼の眼差しは、どこか遠くの誰かを見ているようだった。 「その人の帰りを、待つ人がいる」 「…長森さんですか?」 肯定するように、私と視線を合わせる。とてもおだやかな表情が、どことなく悲壮感を漂わせていた。 「それに、僕はもうここには居られないんだよ。もとからこちらの世界の住人ではなかったからね」 そう言い放つ彼に、かける言葉が見つからなかった。 「いいんだよ、それで。自然なんだよ、その方が。そして、僕が居なくなることで、もしかしたら幸せになってくれるかも知れない人がいる。 …とても大事な人が、幸せになるかも知れないんだ。 喜んで、とは言えないけど、僕は納得して自分の居るべき世界へ行ける」 「長森さんが、好きなんでしょう? どうして、自分が長森さんの幸せになろうとしないんですか…」 私の問いに、当然のことを言うようにさらりと、彼は応えた。 「好きな人には、笑っていて欲しいからね。 消えかけている自分にできる方法は、もうこれしかないから」 時間がないことも、本当なのだろう。 保険医に帰ることを報告に行ったとき、首を傾げられた。 「誰か一緒にいたような気がしたけれど…」 それもほんの数秒、すぐにありきたりの挨拶で私は職員室から出された。 関わろうと思って関わった相手でないと、もう会ったことさえ覚えていられないレベルに到達している。 だから、本当に、最期の願いを…彼は私に託した。 「困った人です…」 大きな溜息を付いて、看板の濡れた文字を指で拭う。 最期の頼まれごとが、少し荷が重い。 頼まれごとを聞く義理は、少ないと思う。 倒れたのだって、原因は彼と言っても良いはずだ。 無理は言われてはいない。 ほんの少し、私が過去に体験した話を長森さんにすればいいだけ。 私が、この空の向こうの世界へ行ってしまったときの話を。 心地よい大気に抱かれ、大好きな人の笑顔が側にあって、総てに満足をしていた。 望んだものが、そこにはあった。 私を必要だと、私を愛おしいと、愛しい声が耳元で囁く。 誰よりも側にいて欲しいと、いつまでも側にいたいと、このまま抱きしめていようと、囁く。 触れられる肌が熱くて、幸福感にとろけそうだった。 見つめてくれる眼差しに、気恥ずかしさを感じながらその首に腕を回す。 総てが満たされていると思った。 総てを、分かち合えると思った。 詩子のことも、家に待つ家族のことも、どうだって良かった。私のたった一つが、ここにあるのだから。 今思い返せば、その考えは間違いだと、心のどこかで判っていたように思える。 見たくなかった、気が付きたくなかった事実にたどり着いたのは、小さな綻びの繋がりだった。 「あなたは今まで、何をしていたの?」 「あなたは、どうしてこの世界へ来ようと思ったの?」 他のことになら、笑顔で答えてくれる。…私の望んだ答えを。 だけど…。 本当に聞いてみたかった、私では答えが見つけられない問いには、けして答えはなかった。 「どうして、私を置いていったの?」 「どうして、答えてくれないの?」 いつもの笑顔のままで。 笑うだけの。 同じ曲が繰り返されるような、同じシーンを見せられるような、どこか虚無的な。 気が付いてしまった。気付きたくないことに。 その世界は、私の望んだ世界。 住人は、私の願望を映していただけ。 本当に会いたかった人は、その世界には居なかった。 どこにも、居なかったんだ。 運命を司る神様が居るのなら、きっととても悪戯が好きなのだろう。 雨粒が傘の布地を叩く音が、いつもより大きく感じられた。まるで、世界に一人取り残されたかのように。 時間の流れも、いやに遅く感じられた。立ち去ろうとした私を、引き止めるかのように。 身体も心なしか、重く感じられる。 「…里村さん?」 慣れては居ないけれど、聞き覚えのある声。 ゆっくりと振り向く先に、柔らかな笑顔の少女が黄色い傘をさして立っていた。 長森、瑞佳さん。 本来ならば、こんな場所で会うはずのない相手。もちろん、会えると思っていなかった相手。 「里村さん、こんな所で何してるの?」 彼女の問いかける声が、遠くからするようだと思った次の瞬間、身体の平衡感覚が崩れるのを感じた。 「…人を、待っているんです」 答えを告げることしか、私にはできなかった。 額の上の方から抜けるように、意識が遠くなっていった。 雨上がりの道を、私は学校へと走っていた。ぬかるみをいくつも飛び越えて。 雨雲が切れて、朱色と紺の混じった空が見え隠れしている。 その下を、私は走った。 倒れた私を介抱してくれた長森さんと、雨宿りがてら喫茶店でいろいろと話をすることができた。 彼女は、最初に感じたとおり、温かい人だ。きっと彼女が好きな人も、温かい人なんだと思う。 彼…氷上君が長森さんに惹かれたのも、そういう部分だったのかも知れない。 その氷上君に、この事を伝えておきたかった。 別校舎の廊下に右足がかかる。それと同時に、何かが軽くなる感触。 違和感に気を取られ立ち止まるけれど、何も異常はない。 もう一度足を進めようとして、戸惑いが生まれる。 私は、何をしようとしていた? 「…ひかみ、君…」 胸につっかえていた言葉を口にして、ようやく思い出す。彼には、時間がないことを。 軽音部室の扉を開けると、灰色にうずくまる少年。空と同じようにくすんで見える。 上げた顔には、以前よりも余裕がない。 「やぁ、覚えていてくれていたんだ」 「…本当に、時間がないんですね」 無理をしてるとわかる笑顔を向けて、立ち上がる。 ただただ、私は見守ることしかできずに。 「長森さんと、話をしてくれたんだね」 『どうして』とは聞かずに、私は頷いた。 「キミ、顔色が悪いよ。向こうの世界に関する話になると、いつも調子が悪いみたいだね」 自分から種明かしをする彼は、幾分やつれて見える。 「あの世界は、思い出すだけでも辛いですから」 「ごめん、それじゃ僕はキミに辛いことをさせてしまったね」 口調だけは変わらずに、どこか飄々としたままだ。 「かまいません。あなたがこれで、良かったのなら。本当に…良かったのなら」 「良かったよ。明日は元気な長森さんに会えるから。 彼女を見たら、欲を出してしまうかも知れないけれど…。 僕の姿が変わっても、それが僕ではなくなっても、この気持ちは降り注ぐ雨の滴のように彼女に降り注ぐと思うから。 想いは、彼女へ還るから、今はこれで良いんだよ」 最期なのに、最期だから。 わがままの一つでも、言えばいいのに。 「ありがとう」 そう言って向けた笑顔は、とても綺麗に見えた。 私が部屋を出るまで、その笑顔は崩れることはなかった。 |