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「ここの面積を求めるには、こっちとこっちが直角なのがわかっているから…ここをこうすれば良いんだよ」 「ああ、こっちの方からここを引いて、こっちの面積を計算すれば良いんだね?」 窓の外が朱色に染まる、その時間に氷上君に勉強を教えるようになっていた。 氷上君と浩平の事で話をしているうちに、彼が病弱であんまり授業を最後まで受けていない事を知って、引き受けてしまった。 浩平にまたお節介って言われるかな、なんて思いながらも今日で放課後の勉強会は3日目になる。 「上手いね、教え方」 「ううん、元が良いんだよ。ちゃんと授業を受けられていたら、きっとかなり上位の成績を残せるんじゃないかな?」 さわりとして今日授業中に貰った数学のテキストを見せたのに、解くコツをいくつかを教えてあげるだけで氷上君はどんどん問題をこなしていく。 そういえば男の子は、元から理数が得意な脳をしてるって聞いたような気がする。浩平も、結構得意だったし。 「どうしたんだい? 僕の顔を見て」 「あ、ううん、男の子ってみんなこんな感じなんだなって、思っていたんだよ」 「折原君みたいに?」 わたしは一瞬、答えに詰まった。 「君は、折原君が好きなんだね。本当に」 氷上君は笑顔のまま、そう続けた。 悪意や他意がないのはわかっていたけど、自分が氷上君越しに浩平を見てると言われたみたいで、急に恥ずかしさがこみ上げてきた。 「あのぬいぐるみだって、肌身離さず持っているよね。すごく大事にしてるのがわかるよ」 身体が熱い、特に顔が熱い。その熱さから逃げるように、慌ててぬいぐるみをカバンの中に押し込んだ。 「いいのかい? 大事なぬいぐるみをそんな風に押し込めて」 「い、いいんだよ、後できちんと入れ直すからっ」 愛想笑いで何とかその場はごまかした。 氷上君の瞳が、何かを考えるようにカバンを見ていたけど、わたしは気が付かない振りをして勉強を続けた。 朱色が深い青にその身を委ねる、そんな空の下を二人でゆっくりと歩いた。 誰もいない通学路は何度も見ているはずなのに、今日は違和感を感じる。そう思うのは、隣にいる人が珍しいからなのか、その人自体が持つ雰囲気なのかはわからないけど。 「へぇ、こっちってこんな道なんだね」 氷上君が物珍しそうにいろいろと見て回る。 「ごめんね、送って貰っちゃって…」 「かまわないよ。僕が長森さんを送りたいんだから」 他の男の子と氷上君の大きな違いは、こんな風に自分の意志を押しつけにならないように出せるところだと思う。 ただ、たまにそれが口説き文句みたいに聞こえることがる。 「あ、でも、それで家と別の方向まで来てくれるなんて、氷上君優しいよねっ。女の子にすごくもてるんでしょ?」 少し首を傾げて、氷上君は私を見る。 「女の子にもてた事なんて無いよ? それに僕は、そうしたい相手にしか優しくしたいと思わない」 すっと細めた眼差しが、感情をあまり映さない瞳が、わたしをドキドキさせる。 鼓動の激しさを悟られないように、私は歩調を早めた。 「ねぇ、氷上君は甘いもの好きかな?」 「甘いもの? 食べたいとは思ってるけど」 「じゃ、クレープ食べにいかないかな? 美味しいところ知っているんだよ。ただ、帰りが遅くなっちゃうけど」 話を逸らして、向かう先を少し変える。できるだけ、不自然にならないように。 「いいよ、クレープって食べたことないんだ」 足早な私にほんの数歩で追いついて、また隣を歩く氷上君。肩を並べたところで歩調をわたしにあわせてくれる。 歩調、あわせてくれていたんだ…。 そう思った瞬間、少しの罪悪感と一緒に浩平の顔が浮かんだ。 浩平はいつも先に行って、わたしがついてくるのを待っていた。いつもその背中を追いかけていた。 浩平の背中を追いかけるのが、楽しかった。 「………」 「……?」 氷上君が私と手に持ってクレープを交互に眺める。 「どうかしたの?」 買ったクレープはわたしが生クリームとバナナとチョコ、氷上君のは苺とチョコとバニラアイスが入ってる。早く食べないと氷上君の方はとけて大変なことになちゃうんだけど…。 「………」 もう一度、氷上君の眼差しが私とクレープの間を彷徨う。 「…あ! 食べ方がわからないんだね」 わたしが頷くと、氷上君も大きく頷いた。その仕草が今までの神秘的な、まるで遠くの存在のような雰囲気を一気にかき消した。 まじまじと見つめるその眼差しの前で、わたしはクレープの包み紙に手をかける。 ぴりぴりぴり…。 包み紙の上の方をぐるりと破けば、クレープが顔を出す。そこをかぷっ、とかじる。 目で合図すると、氷上君も包み紙に手をかける。 「食べる分だけ破くんだよ」 声をかけると頷いて、慎重に少しずつ破いていく。 ぴり…ぴり…ぴりり…。 上の方だけ破り捨てて、氷上君も同じようにクレープにかぶりつく。 「こぼさないよう、気をつけてね」 頷きながらも口はクレープから離れない。丸く開いた目がまるで子供のよう。 生クリーム入りだったら、きっと口中にクリームつけそうだな、と思った。それでも、アイス入りクレープは食べるのに結構注意がいる。 教えるかのようにわたしが少しずつ食べていく。氷上君もならって少しずつ食べていく。 カルガモの親子が散歩するように、二人は同じペースでクレープを食べた。 別に会話が弾んだわけじゃなかったけど、一緒にいるだけで楽しいと思える時間。そんな時間を過ごすのは本当に久しぶりで、クレープの包み紙をたたんでもゴミ箱へ捨ててしまうのをついためらってしまった。 「これは、ゴミ箱に捨てて良いんだよね?」 折り畳むのまで倣った氷上君が、動きを止めて私を見る。 「そ、そうだよ」 慌てて自分の手の中にある包み紙を捨てると、安心したように頷いて氷上君もゴミ箱へ捨てる。 捨てた後で、言いようのない後悔が心にシミを広げた。 「美味しかったよ」 目の前に伸びた白い手。その先には笑顔の氷上君。 「さ、帰ろう。最後までエスコートさせて貰うよ」 私は、その手を取った。 細身で、少し冷たいけど触り心地の良い手だった。 浩平とは違うんだな、と当たり前のことを思いながら、玄関先まで氷上君に送ってもらった。 |