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〜ONE〜
「瑞佳ぁ、向こうで呼ばれてるよ」
 黒いストレートの髪先が机の前で揺れる。顔を見なくても制服のスカートから違うからすぐわかるけれど、顔を上げる。
 やっぱり七瀬さんだ。
「呼んでる? 誰が?」
 教室を見回すと、後の端の方で席を占領して固まっている友人達がこちらへ手を振っている。
「ね? 行った方がいいんじゃない?」
「うん、教えてくれてありがとう」
 気は重いけれど、急いで呼ばれた方へ行く。
 言われることは判ってる。週末に男の子を紹介してくれるって言っていたから、その打ち合わせのはず。
「み〜〜〜ずぅ〜〜〜かぁ〜〜〜〜〜」
 待ちかねた、と言う顔をしながら、私の手首を掴む。
「付き合ってる男の子、ちゃんといるんじゃない! どうして教えてくれなかったの?!」
 引き寄せるなり頭を掴まれ、振り回された。
「なんのことっ? 知らないよぅ」
「とぼけたって無駄よ、昨日うちの学校の男の子とパタポ屋でクレープ食べていたでしょ。佐織が見てるんだよっ」
 言われて、メンバーに加わっていなかったはずの佐織がちゃっかりその中にいるのに気が付いた。
「かっこいい男の子と二人っきりだったし、変えるときには手を繋いでいたよね〜」
 わたしの視線を受けて、口の端を嬉しそうに上げて佐織が言う。
「くぅ〜〜〜っ、ただでさえもてているくせに、かっこいい男の子ですとぉ〜っ! これはもう、今日のお昼でジュースおごりね」
「ええっ、なんでそんなのっ」
 またもや頭を左右に振られる。
「今の瑞佳に断る権利はなぁ〜〜いっ!」
 一斉にみんなが頷く。そして、差し出されるメモ用紙。
「これ、買ってきてね」
 オレンジジュース、パックのコーヒー…。一応、わたしの財布があまり傷まないような物ばかり書いてある。
「わかったよ…」
 溜息を一つ付いてメモを受け取ると、わたしの頭がやっと解放された。
「紹介するって言った男の子の方には、断っておくからね」

 よろめきながら席に戻ると、七瀬さんが待っていた。
「大丈夫? なんだか振り回されていたけど」
「うん、大丈夫だよ。少し目が回ったけどね」
「そう。…で、付き合ってる男の子って誰?」
 七瀬さんの一言に、わたしは机に突っ伏した。

「へぇ、例の男の子のことを知ってる人、ねぇ」
 みんなはとっくにお弁当を食べ終え教室を出ている。ジュースを買いに行って遅れたわたしに、ななせさんが付き合ってくれたので、氷上君のことを話してみた。
「うん、わたしが言ってないのに、ちゃんと名前を知っていたんだよ」
「でも、さ。調べておいたのかも知れないよ? 瑞佳のことを狙っていて、調べておいたのかも」
「調べられないよ…。だって、七瀬さんも名前覚えていないでしょ? 何回も名前を言ってるのに」
「それなのよねぇ」
 七瀬さんが真剣な面もちで机に両肘をつける。
 その隙に私は箸を進める。鳥そぼろの味付けがいい感じ。
「どうしても、何回言われてもその名前を忘れちゃう。メモに書いても、後でそれを見たときに何の話だったのかさえ覚えていない。確かに不思議だし、瑞佳の言うことも、もしかしたら本当かも知れないって思いたくなるのよねぇ…」
「本当のことなんだけどね…。去年の暮れに七瀬さんの後の席に座っていて、いつも騒いでいたんだよ…」
 みんな、そう。
 七瀬さんのように、何度浩平の名前を言ってもすぐに忘れてしまう。
 だから、氷上君が浩平の名前を覚えているのは、例え調べたんだとしてもとても特殊なこと。
「うん…やっぱり思い出せないけど、今度私にも会わせてよ。その男の子…氷上、シュン、だっけ?」
「一応聞いてみるよ。たぶん良いって言ってくれると思うよ」
「うん、私の方でもちょっとその男の子のこと調べてみる」
 やっとお弁当を食べ終えると、ちょうど予鈴が鳴った。
 小さく手を振ると七瀬さんは自分の席に戻って教科書を出す。
 わたしもノートを2冊出すと、教科書の前半のポイントをまだ白い方のノートに書き込みはじめた。



 英単語テストをコピーしたものを渡すと、氷上君は辞書を引きはじめた。
「あのね、氷上君。わたしの友達が会ってみたいて言ってるんだけど…」
 首を上げて、わたしの方を向く。
「友達? どうして?」
 かいつまんで、今日の話をしてみた。
「…で、七瀬さんって言うんだけど、いい子だから会ってみないかなって」
「それは、止めた方が良いと思うよ」
 予想外の素っ気ない返事に、少し面食らってしまった。
「人に会うの、嫌いだった?」
 辞書を引きながら、手を止めずに氷上君は答える。
「そうじゃないけど。たぶん会わない方がお互いのためだと思うよ」
「どうしてそう思うの? 七瀬さんは良い子だし氷上君も良い人だと思うけどなっ」
 用紙の空白を埋めながら、氷上君は気がないよな声で返答する。
「そうだね、どうしてもって言うなら、彼女に明日聞いてみると良いよ。僕と会いたいと思うか、ね」

 それ以降、なんだか話しかけ辛くて、氷上君が空白を全部埋めるまで黙っていた。
 終わる頃には、見上げた空の雲行きがすっかり怪しくなっていた。
「雨が降りそうだね…」
「傘はあるの?」
 変わりない優しい態度で、私の顔をのぞき込む。
「うん、あるよ。氷上君は?」
「僕は持っていないし、今日はもうしばらく残っていないといけないんだ」
「先生に用事? もしかしてわたし、邪魔だったかな?」
 ゆっくりと首を横に振って、微笑む。
 薄暗い校舎は、まだ灯りがついていなくて、氷上君が今にもその薄い闇に取り込まれそうだった。
「相手してくれてありがたいくらいだよ。君といるといつでも楽しいし」
 いつもと同じ、口説き文句とも取れる言葉。

 結局わたしだけが傘を持って校舎を後にした。
 氷上君は、いつもと同じだった。なのに、どこかが違う感じがした。
 この違和感の出所をわからないまま、黄昏時を過ぎようとしている空の下へ走りだした。



 雫は、乾いた空気と歩道を濡らす。
 さした傘に当たる雨粒の音が、クレシェンドからデクレシェンドに変わる頃、まだわたしは家にたどり着いていなかった。
 天気が悪いことはわかっていたけど、真っ直ぐ家に帰る気分じゃなかった。
 歩き慣れた道を曲がってみても、そこはやっぱり歩き慣れた道。浩平と探索した記憶が呼び覚まされる。
 目をつぶって歩いたり、棒が倒れた方向へ進んだり。
 そうやってたどり着いた先に、桜色の大きな傘を見つけた。

「…里村さん?」
 クラスでいつも一人で、おとなしいのに何かを思い詰めたような顔をしてる女の子。それがわたしの里村茜さんの印象だけど、今日はより一層思い詰めた顔をしている。
 名前を呼ばれてこちらを向いても、表情はほとんど変わっていない。
 ただ、本当に幽かに、目を伏せた。
「里村さん、こんな所で何してるの?」
 彼女の目の前は、工事現場のついたてが張り巡らされている。ヘルメットをかぶった男の人が頭を下げている絵の前から、里村さんは動こうとしない。
 良く見れば、その傘で雨を遮っている足下の路地が、ほとんど濡れていない。
「…人を、待っているんです」
 ようやく口を開いた里村さんの顔色が悪い事に気が付いたときには、桜色の傘が大きく揺れて路地へと転がった。



「大丈夫? 里村さん」
 ホットミルクをすすると、小さく頷いた。
 倒れかけた里村さんを支えて、近くの喫茶店に入るとお店の人も手伝って介抱してくれた。
 ここに来られたのは浩平のおかげだな、と思いながら、顔色が戻ってきた里村さんの顔を眺めた。
「…すいません」
 申し訳なさそうに目を伏せる里村さんに、慌てて笑顔を向ける。
「いいんだよ、ちょうど暇でうろついていたところだったし。それより、どうしてあんな所にいたの?」
 ただの工事現場を、雨の中見ていてもあまり楽しくはない気がする。
 でも、里村さんはその場所に立っていた、雨が降ってからずっと。
「…人を、待っているんです」
 さっき聞いたのと同じ言葉。
「誰を待っているの?」
 温もりにすがるように、里村さんはマグカップを両手で握ったまま、目を閉じた。

「…大切な…、私の大切な人を、待っているんです」

 その言葉を皮切りに、里村さんはぽつりぽつりと自分のことを話してくれた。

「幼なじみが消えてしまってから、もう2年経ちます」
 淡々とした口調で、里村さんの話は始まった。
「最初は、いつも3人でいた友人が、そしてすぐに他に人達が、彼の存在を忘れていきました」
 ミルクの表面から立ち上る湯気をふっと吹いて、一口すする。
「学校の先生も、彼の家族も、彼に会っても誰なのかわからなくなって。学校の名簿に名前はあるのに、その存在を誰も気が付かなくなっていったんです。
 私も、気を抜くと彼のことを忘れそうだった。
 大事なもの、大切な記憶、それらが消えようとする喪失感と戦いながら、毎日彼に会っていた。
 日に日に居場所を失う彼を見て、今日は会えた、明日も会えるかと心を揺らす毎日が続いて。…そんな日々の中で、私は彼の『存在』が消えていくのを、ただ一緒に見守るしかなかった」
 里村さんの眼差しは、遠い世界を見るように虚ろで、恐いくらいだった。
 そして話の内容は、私にとってはもっと恐いものだった。
 …浩平が消えるときに、わたしも味わった事だから。
「彼がこの世界にそれほど絶望していたなんて知らなかった自分が悔しくて、一晩中泣いたりもして。彼を忘れないように日記を付けたりもして…。
 でも、あの日は来てしまった。
 …彼は、あの場所で消えてしまったんです。あの場所がまだ、空き地だった頃に」

 溜息を吐くように最後の一言を一気に吐き出して、里村さんはミルクを飲む。
 わたしには、そんな里村さんにかける言葉が見つからなくて、視線を机の上に彷徨わせるしかなかった。

「私、彼のいる世界へ行こうとしたことがあるんです」
 続く里村さんの言葉に、私は顔を上げた。
「彼のいる世界に行きたくて、待つことに疲れ果てて…。彼と同じ世界へ、一度は行ったんです」
 そんなことができるのか、その世界はどんな場所だったのか、聞きたいことは喉元まで込み上げたけれど、里村さんの虚ろな眼差しを見て思い止まった。
「その世界は、夢のようでした。ずっと待ち続けていた彼が、私を迎えに来てくれました。
 …このままずっといられたら…そう思いたくなる世界でした」
「なのに、どうして里村さんはここにいるの?」
 堪えきれずにこぼれた言葉に、里村さんは目を伏せた。
「……その世界に、本当の彼はいなかったから。
 その世界は、全部私の夢・願い…そういったものが叶う世界でした。
 出迎えてくれた彼は優しくて、覚えていたとおりで、して欲しいことを叶えてくれた。
 でも、私は気が付いてしまった。
 …それは本当の彼じゃない、私の願望が作り上げた虚像なんだって。
 彼のいる世界は、そこじゃなかったんです。
 …正確には、彼は彼自身の『願いが叶う世界』にいるんです。
 その事に気が付いてしまった私は、その世界から放り出されるようにこの世界へ戻っていました」
 里村さんの瞳に、生気が戻る。
 しっかりと掴んだマグカップの、残り少ないミルクを見つめながら、少し微笑んだ。
「だから、私は待っているんです。あの世界には本当の私も、本当のみんなもいないから、きっと寂しくて帰ってくるはずだから。
 雨が降る日には、傘を持ってあの場所に行ってるんです。
 …あいつバカだから普通なら風邪はひかないと思うけど、それでも帰ってくるなり風邪をひいたらかわいそうだから…」
 ようやく最後の一口を飲み終えると、初めて里村さんが笑顔を見せた。
「世話がかかるけど、私の一番大切な人だから」
 笑顔が、とても眩しかった。

 雨が上がるまで、わたしと里村さんは喫茶店で世間話をした。
 今日の授業のこと…最近流行っていること…美味しいお店のこと。洋服を買いに行くお店のことも、帰りがけによる公園のことも、色々話した。
 浩平のぬいぐるみにも、とっても興味を示してくれた。
 里村さんとは話したことがなかったけれど、思ったより気が合うこともわかった。

「私たち、似たもの同士なのかも知れませんね」
 会計を済ませて店をでると同時に、里村さんが振り向いた。
「そうだね、わたしもそう思うよ」
 同じように大切な人を目の前で失った二人。その人を待ち続ける二人。…理解者の無い中で、自分だけが抱く思い出を見据えながら。
 同じ事をしている相手を見つけてもなお、孤独な…。
 見た目も趣味も違うけれど、思っていることはたぶん一緒。
「明日、長森さんが私の話をどれだけ覚えているかわからないけれど…」
「覚えているよ、明日も明後日もっ」
 わたしの返事に、少しだけ表情を曇らせて、里村さんはつぶやいた。
「彼の話をした人は、みんな次の日にはその話があったことを忘れてしまっています。だからきっと長森さんも忘れてしまうと思います…」
「大丈夫っ、忘れないよ。絶対に忘れない」
 里村さんの手を取るとビックリされたけど、最後には笑顔で別れることが出来た。

 私もあんな風な笑顔を最後まで持っていたい、そう強く思いながら私も家路を急いだ。



 二つにわけた髪を頭の両脇で縛る。これが私の髪質だと毛先が広がってうるさくなる。
 そんな髪型ができる七瀬さんの髪質は羨ましいときがある。
「七瀬さん、昨日の話なんだけど…」
 わたしの声に赤いリボンの付いた髪が揺れて振り返る。
「瑞佳? 昨日の話って…なんかあったっけ?」
 きょとんと私を見つてくる。
「え……ううん、何でもないけど…」
 昨日の氷上君の言葉が頭をよぎる。
『彼女に明日聞いてみると良いよ。僕と会いたいと思うか、ね』
 この事? 彼が言っていたのは。
「それより、昨日の宿題の答え合わせ付き合ってくれる?」
「うん、良いよ」
 七瀬さんに平常を装いながら話はしても、心は放課後のことを考えていた。



 切れた息を整えないまま、軽音部室のドアを開ける。夕日に照らされて、いつものように窓の外を見る氷上君は、いつも通り軽くこちらを向く。
「…こっちへおいでよ。ドアを開け放つのは、好ましいと思えないよ」
 言われたとおりドアを閉めると、私はロッカーから降りた氷上君に詰め寄った。
「氷上君は、知っていたんだね? 七瀬さんが昨日の話を覚えていないことを」
 表情がすっと冷たくなる。昨日もそう、七瀬さんの話をしたとたん態度が冷たくなった。
「やっぱり、忘れていたんだね、友達は」
「どうして、それを知っていたの? 教えて、氷上君」
 氷上君の赤みを帯びた瞳が、わたしを見つめる。わたしもそのまま、氷上君を見つめかえす。

 先に視線をそらしたのは、氷上君だった。
「教えて…くれるよね」
 そう言った瞬間、目の前が真っ暗になった。
 何かが覆い被さってきて、わたしを押さえ込んだ。
 相手は一人しか居ないけれど、彼がそんなことをしてきたと認識するまでにパニックを起こしてる間に、わたしは完全に自由を奪われていた。
 一気に教室の壁に押さえつけられて、片手で手首を掴み上げられる。
「なんでこんなことするのっ、氷上く…」
 顔を見ようとして見上げた瞬間、私の唇に柔らかい感触が伝わった。
 その感触ははじめは軽く、すぐに強く押しつけらる。
「〜〜〜っ!」
 声を上げたくても、上げられない。抵抗したいのに身体は完全に押さえ込まれている。
 そして何よりとまどったのは、氷上君にされていることに嫌悪感を感じていない自分。
 言葉にならないうなり声をあげるしかないわたしの唇に唇を重ねたままスライドさせて、より深い口付けを求めてくる。
 開かされた唇に舌先が入り込み、口腔で蠢く。
「………」
 目を開くと、そこには氷上君の顔があった。最初にあったときと同じ、端正な顔。でもその瞳は閉じられ、目尻がうっすらと濡れているような気がした。
「………」
 わたしが身体の力を抜くと、氷上君の舌が私の口腔で縦横に暴れ回る。
 抵抗しないでいると、やがて氷上君は動きを止めて、唇をゆっくりと離した。
「長森さん……?」
 顔立ちも仕草も違うのに、氷上君の顔が一瞬浩平に見えた。
 不安そうに覗くその瞳に、わたしの目から堪えきれなかった雫が流れ落ちるのが見えた。 頬を伝い、床に落ち、しみていく雫を。

「こうへい……」
 それだけ言うのが、私の精一杯だった。



 胸が張り裂けそうな思いが本当にあるんだと感じたのは、これで2回目。
 今、私の胸を渦巻く感情は、溢れてとめどない涙となって流れていた。
 浩平と氷上君は違う人、わかっていてもわたしは心のどこかで二人を重ねていた。
 それは、とても失礼なこと。
 浩平にも氷上君にも、失礼なこと。
 氷上君に押さえつけられたとき、それを嫌だと思わなかった。
 氷上君から向けられる好意を感じて、浩平とのことを置き去りにしてはしゃいでいた。
 それは、言いようもないほど悪いこと。
 待っていると言いながら、待っていなかったと同じくらいの裏切り。
 …自分を振り返るたびに沸き上がる後悔の念と自責の念。その二つに潰されるように、わたしはしゃがみ込んでいた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
 たった一つの言葉を繰り返しつぶやきながら。

 背中を撫でられる感触に気が付いたのは、どれほど時間が経ってからか。
 しゃくり上げて上手く息を吸えずに咳き込むたびに、背中を撫でてくれる手があった。
 氷上君はいつの間にか右隣に座って、わたしの顔を心配そうに見ていた。
「ひかみ…くん」
 声が鼻にかかる。ポケットからハンカチを出して、顔の大半を押さえてぐしゃぐしゃになった部分を隠した。
「ごめん、僕は自分のことを言ってなかったね」
 わたしの背中を撫でながら、氷上君は話をはじめた。
「何から話そうか…」
「…七瀬さんがあなたのことを忘れるって、どうして知っていたの?」
 この教室へ急いできた理由を思い出して、そのときと同じ質問を繰り返してみた。
「ああ、その事から話そうか。
 結論から言えば、僕はもうすぐこの世界からいなくなる人間なんだ。
 折原君の時のことを、君は覚えているだろう? あれと同じ、自分が消える前にまず周りの人の自分との記憶が消えていく」
 その言葉に、心当たりがなかったわけじゃない。
 放課後、誰もいない教室でしか会うことのない男の子。
 どうして放課後でしか会うことがないのか? 同じ校舎にいるはずなのに、今まであったことがなかったのはどうしてなのか?
 疑問に思うことは出来たのに、「浩平のことを知っている仲間」と思って考えようとしていなかった。
「氷上君も…消えるの?」
「うん、そうしないと、浩平君のいる世界へ行けないからね」
 突然出た浩平の名前に、わたしは思ったよりも動揺しなかった。氷上君を見るたびに浩平を思い出していたせいか、感覚が麻痺してしまっているのかはわからないけれど。
「折原君の行った世界は、すべてが始まりがなく終わりがない。だから永遠に物事が繰り返される世界なんだ。
 永遠の世界は、浩平君が昔行きたいと願った世界。
 その世界には折原君を待っているお姫様がいるんだ。そして、その世界へ行きたいと思う折原君の願いが、『その世界で暮らすことを望む自分』の代理として王子様を産んだ」
 里村さんの言葉が、脳裏に蘇る。

『彼は彼自身の『願いが叶う世界』にいるんです』

「本来なら、王子様は折原君がその世界へ来たときに折原君と一つになって、お姫様とずっと幸せに暮らすはずだった。
 折原君は自分で作った世界を忘れ、無かったものと思い、取り残されたお姫様と王子様はそれぞれに意志を持ってしまった。
 …特に王子の方は、折原君がその世界へ行きたいと思わなくなってから、姿も正確も考えることも明らかに別人になってしまった。
 王子さまの姿が変われば変わるほどに、お姫様は折原君の心変わりを知る。王子様はいつの間にか、お姫様に疎まれる存在になっていた」

 氷上君の腕が、わたしの肩に回る。一瞬身構えたけど、その手は優しく肩を撫でるだけだった。
「お姫様は力を持ち、王子様も力を持った。二人は思うことは別だったけれど、折原君のいる世界に触れることを望んだ。
 …結果として、王子様は折原君と同じ世界で違う姿・違う名前・違う人格を持って存在することに成功した。
 お姫様の方は、折原君を強制的に自分のいる世界へ連れて行くことに成功したんだ」
 黙ったまま、氷上君の空いている手を取る。氷上君の頭がわたしの肩により掛かってくる。
「…王子様は、折原君より先に元の世界に戻った。折原君と一つにならなければ、自分がその世界にいた意味が無くなるから。
 それなのに、お姫様にその世界を追い出されてしまったんだ。お姫様が欲しかったのは折原君で、変わってしまった王子様じゃなかったんだ。
 永遠の世界に折原君がいるには、王子様の存在が必要不可欠なのに」
「…身勝手だよね、そのお姫様」
「…仕方ないんだよ、折原君と暮らすためだけに産まれたんだから。それが出来なくなったら、いる意味がないんだ」

 少しの間、沈黙が流れた。
 わたしは氷上君の手を握り、氷上君は私の肩を抱く。
 その感触は、ひどく虚ろだった。

「…折原君を自分の世界に止めるために、お姫様は王子様を連れ戻さなければならなくなった。王子様自身も、一回消えた身だからこちらの世界に居辛かった。
 王子様は元の世界に戻ろうと思っていたけれど、たった一つだけやってみたいことがあったんだ」
 わたしが見上げれば、氷上君の視線とぶつかる。
 その眼差しは、諦めと優しさが同居しているように見えた。
「折原君のように誰かを愛したい、折原君のように絆と呼べるほど強いものを誰かと繋ぎたい、それが最後の願いだったんだ」

「ごめんね……」
 わたしの言葉に、首を振る。
「良いんだよ、わかっていたんだ。僕は折原君の一部で、折原君自身じゃない。
 彼と同じ人を好きになったのも、きっと偶然じゃなかったんだ」



 青い空に、薄く白い雲が一本だけ縞模様を作っていた。
 下の方からは、子供の声。公園で遊んでいるんだろう。
 常緑樹の枝から、まだ弱い日差しがこぼれる。
「ありがとう、付き合ってくれて」
「ううん、当然だよ…」
 学校裏の山は、休日には人気がない。
「ここだよ、浩平が消えた場所は」
 はっきりと覚えている場所に立って、わたしは氷上君の方を振り返った。
「…最後に、聞きたいことはあるかい?」
 氷上君の言葉に胸が詰まる。
 聞きたいことならいっぱいある。これから氷上君がどうなるのか、浩平がどうなるのか。
 …わたしは、どうすればいいのか。
 もちろん、それを聞いても困らせるだけなのはわかっている。だから、わたしは黙って首を横に振った。
「じゃあ、僕の方から言っておくよ。
 僕が向こうの世界に行けば、確実に僕は折原君と一つになる。
 その後で彼が向こうの世界に留まるか、こちらへ帰ってくるかは僕にはわからない。
 彼が帰ってくるとしても、僕が消えてからしばらくかかるからね。
 僕を取り込んで向こうの世界に固定して一つに完成するか、向こうの世界ごと僕もお姫様も取り込んで一つになってこちらへ戻ってくるかの、どちらかにはなるはずだけどね」
「…どちらを選んでも、氷上君は消えちゃうんだね」
 そう言うわたしの唇に、彼は人差し指を当てて押さえた。
「消えるんじゃないよ。
 僕もこの前までは消えるんだと思っていたけど、そうじゃないんだ。
 本来の折原君って言うのがあって、僕はそこから抜け落ちたピースなんだ。
 本来の折原君は、本来の僕って事にもなる。
 僕はようやく、本当に帰るべき場所を見つけられたんだよ。君のおかげで、ね」
「わたしなんか、何にもしてないよっ」
「…それじゃ、一つだけ、僕の方から聞いても良いかな?」
 氷上君は指を離して、わたしの顔をのぞき込む。まるで小さい子のご機嫌を伺うように。
「永遠は、あると思うかい?」
 その質問の答えは、思うより先に口をついで出た。
「永遠は、あるよ」
 伸ばせる限り腕を伸ばし、両手を大きく開いて、私は言葉を続けた。
「ここに、あるよ」
 ここ…わたしが暮らすこの世界に、永遠はある。
 わたしの仕草を見て、氷上君は満足そうに笑った。
「君なら、そういうと思ったよ」
 わたしも、精一杯の笑顔を向ける。
「そう、その顔だ。君には笑顔が一番似合うよ」
 ふっと、私の目の前に氷上君の手が覆い被さる。
「あ…」
 次の瞬間、私の唇にかすかな感触が伝わる。
 …触れるか触れないかの、軽いキス。
 いつかどこかで、誰かと交わしたような…。

 まわりの木々から飛び立つ鳥の羽音。
 閉じた目を開くと、白い羽根が舞っていた。
 その中に、ほんの少しだけ、氷上君と…浩平の匂いが残っていた。