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月の照らすもの・2

 茜に染まった雲の尾が、長く長く伸びている。
 黒く、黒く澄んだ瞳で、エディフェルはその空を見ていた。
「寝ていないのか、エディフェル」
「次郎衛門も、でしょう」
 同じ黒い瞳の、今では親子以上に強い絆を分かち合う男に、目を移した。
 二人とも、じっと夜が明けるのを一睡もせずに待っていた。
 同族すべてを、敵にしてしまったエディフェル。
 敵の血を受け、同族の元に戻ることが出来ない次郎衛門。
 二人にあるものは、お互いの存在と、分かち合う同じ想い。
 能力などで伝えあわなくても、触れ合う指先から流れ込む暖かな想い。
 その温もりを確かめるように、二人は強く、手を握りあった。

 二つの影は、枯れ葉の多い林を駆けた。
 踏まれた枯れ葉が音を立てるより早く駆け抜ける様は、物の怪とも精霊とも見えた。
 もし、その姿を見、その容姿を目に捉えることが出来た物がいたなら、迷わずに天女が降り立ったと思ったことだろう。
 白い肌に艶やかな黒髪をなびかせるリズエルと、明るい栗色の髪を風の流すがままにさせるアズエル。
 その影が、同時に別方向へと別れる。
 片方は、少し後戻りする形で。
 片方は真っ直ぐに、今までより足取りを速める。
 真っ直ぐ、リズエルはエディフェルの元へ。
 大回りをして、アズエルは時間を稼ぐ。

「…来ます。姉さん…リズエルが」
 エディフェルはすっくと立ち上がる。
「来たか」
 次郎衛門も立ち上がる…が、エディフェルが腕を伸ばして制する。
 先ず威圧感が、続いて存在自体が疾風の如くぐんぐんと近付いてくる。
 自分の存在を知らしめるための威圧感だと、次郎衛門にもわかった。殺気のないことも。 一斉に鳥が飛び立つ。
 獣たちが四方に散る。
 それと当時に、大きな音を立ててリズエルが飛び出てくる。
 一本一本が細い、艶やかな黒髪がさらりと流れる。
 涼やかな目元をほんの少しつり上げて、次郎衛門を値踏みするように見る。
「リズエル…」
「迎えに来たわ」
 リズエルの視線は、エディフェルを中央にしながら、次郎衛門からも外さない。
「私は、帰らない。エルクゥが、人間狩りを止めない限りは」
「いいえ、あなたは帰るわ。だって、もうすぐそう考える理由が無くなるんですもの」
 リズエルの言葉が終わると同時に、エディフェルは仕掛けた。
 エディフェルの体当たりをあえて受け止め、リズエルは大木に背中からぶつかる。
 みしり、と鈍い音を立てて、その木が傾く。
 離れようとしたエディフェルの手首を掴むと、リズエルは遠くへ投げ捨てる。まるで、小石を遠くへ投げ飛ばすように。
 巨木へ身体が叩きつけられる前にエディフェルは体制を立て直し、叩きつけられるはずだった巨木を足場に、リズエルへと飛ぶ。
「させない! そんなことは!」
「だったら止めて見せなさい、エディフェル!」
 瞬きをする間に幾つもの攻防を繰り広げた二人は、その言葉の直後に大きく別方向へと走った。
 それらを黙って見ていた次郎衛門は、ゆっくりと身を寄せていた木陰から離れた。
「…さて、今度は俺達の番だな」
 樹の高い部分の枝が大きく揺れ、葉の擦れ合う音を立てながら、アズエルは降り立った。
「わかってるみたいだね、私が誰か」
「いや、知らないさ。まずは名前から聞きたいところだが」
 その場の二人の気が、同時に高まる。
「聞きたいなら、力ずくでやってみせるんだね」
 二人が同時に、飛んだ。


 見つめていた。リネットは自分の同族を。
 その力を解放し、生活を営むときとは別の形へと変わったその体躯を存分に使い、他の生物の命を刈り取る。
 ただただ、自分が快楽を得るために。
 ごく自然なことで、当然のこと。
 快楽を、身体が欲するのは当然のこと。
 それは、正直で、合理的。
 理にかない、今まで見てきた他のどの生物よりも強く気高い同族を、リネットは今まで誇りとも思ったことがあった。
 しかし、と、リネットは思う。
 それは、正しいことだったのだろうかと。
 考えてたどり着く答えは、下手をすれば自己否定になりかねない。
 自己否定は、もっとも恥ずべき事だと言うのが、同族の間での常識。
 同族の間での常識?
 では、同族以外では、それは常識なのだろうか。
 この星の住んでいる人間達にとって、それは常識なのだろうか?
 …堂々と巡る考えを一時中断させ、リネットはその場を離れた。
 自分には、やるべき事がある。
 今まで、やるべき事を果たせずに、いくつかの悲劇を起こしてしまった。
 これは、その事態に対して自分が少しでも責任を取る事の出きるチャンスだと思えた。「…姉さん…」
 遠くを見るような瞳で、小さくつぶやくリネット。
 その様子を、伺う者がいることに気づかずに。


 エディフェルは気圧されていた。
 致命的な痛手は被らないものの、こちらもリズエルを止めさせるどのダメージを与えることが出来ない。
 膠着状態でありながら、お互いに全力の攻撃を繰り出しあう。
 そんな時間が、先程から続いていた。
「リズエル、私たちは共存すべきだとなんでわかってくれないの?」
 お互いの隙をうかがいながらの話し合いも、かなり続いている。
「人間は、自分よりも劣る生き物。自分に劣る者と同じ位置にいることを、私たちの一族が嫌うことは、あなたも知っているはずでしょ」
 やはり思った通りの堂々巡り。
「今のままでは、この星でお互いが滅びるのを待つだけ」
「それでも、自分の持っている誇りは、傷つけられない」
 話し合いも、膠着状態。
 二人だけになってだいぶ時間も経っている。
 次郎衛門の元にもう一人の姉がいること、その二人も戦い続けていることに気が付いているのに、この場から離れられない。
 その状態に、些かの焦りも感じていた。
 自分の姉の強さは、側にいた時間が長い分だけ、よく知っている。
 次郎衛門の強さも、良くわかっている。
 だからこそ、その二人の戦いを長引かせたくない…。

 …そう思う焦りが、僅かに態度に出てきていた。
 その焦りが産む隙こそが、初めからリズエルの狙いであるのに。

 リズエルが自分の腰元へ手を伸ばす動きに、エディフェルの反応が一瞬だけ遅れた。
 その遅れは、致命的だった。
 飛びついてきたリズエルから身を引く動作が一瞬遅れ、エディフェルの首はリズエルに捉えられる。
 動脈を圧迫される衝撃に開いた口へ、素早くリズエルの指が潜り込む。
 何か固くて小さい物が喉の奥に詰め込まれ、もう一度首を押さえつけられて無理に嚥下させられる。
「! 何をっ!」
 リズエルが離れると同時に吐き出そうとするが、詰め込まれた物はエディフェルの喉の奥へと落ちていく。
 落ちていった胃の中で素早く溶けて広がり、胃壁を厚くさせる。

 ドクンッ!

 身が跳ね上がるかと思うほど、強い鼓動が一つ。
 続いて、身体が燃え上がるように熱を帯びる。
 その熱が身体から力を吸い取るように、一気に脱力感と無力感が広がる。
「…暴走時の抑制剤よ。私たち女には縁のない物だから、味わうのは初めてでしょうけど。少しだけ、おとなしくして貰うわ」
 うずくまって体を起こせないエディフェルに、リズエルは近寄る。
 柔らかな枯れ葉が敷き詰められ、日も射し込んで暖かい木陰にエディフェルをもたれさせ、リズエルはほんの少しだけ、悲しそうに微笑んだ。
「ごめんなさい…こうしないと、どうしてもあなたの身が危ないの。裏切り者として、あなたを殺そうと考えている者が…少なくないのよ」
「姉さんは…初めからこうしようと…?」
 リズエルは、何も答えずに、エディフェルに背を向けた。
「…ごめんなさい」
 小さく一言を残して、リズエルは力を押さえながら林の木々を縫うように走り去った。 消え行く背中を、エディフェルは朦朧とした意識の中で見ていた。

 小鳥のさえずりが林に戻ってくる頃、エディフェルはゆらりと、自分の身体を、起こした。

「横取りした力のくせに、よく使っているじゃないか」
「粗暴なだけの力の使い方をしているヤツが、良く言うな」
 次郎衛門とアズエルの戦いは、その場の草木をなぎ倒して続いていた。
 力だけなら、同族でも一番のアズエル。
 力を身につけ、今までの経験もあってか、戦いのセンスに長けた次郎衛門。
 どちらも、正面からのぶつかり合いを繰り広げていた。
 お互いが受けた傷は、それこそ無数に身体のあちらこちらで痛みという名の悲鳴を上げていた。
「減らず口と、その忍耐に免じて、名前くらいは教えて置いてやるよ」
「それは嬉しいな。自分の女の家族構成くらい、把握しておきたいからな」
 アズエルが跳ねる。
 足場にした地面が、深くえぐれる。
 勢いに力と体重を乗せて振るう腕を、次郎衛門は横へ払うように流す。
「私はアズエル、本当に大事だと思うなら、エディフェルを私たちのところへ返して、おとなしく私に殺されることだよ!」
 流されてもまた、次郎衛門に飛びかかる。
「すまないが、それがエディフェルのためになるとは思えない」
 姿勢を低くして、次郎衛門は構える。
「あんたが死なないと、エディフェルを殺すことになりかねないんだよ」
 再び、力と力がぶつかる。
 受け止める次郎衛門の足下が、数十センチ地面にめり込む。
 お互いが、また、離れる。
「エディフェルは、俺が守る」
「だったら、アズエルの言うとおり、殺されてください」
 冷たい声が、次郎衛門の背後から発せられる。
 振り向く暇もなく、次郎衛門の背中に痛みが走り、鮮血が飛び散る。
 頬を血で朱に染めながら、リズエルは立っていた。



 殺戮。
 そんな言葉こそがふさわしい戦場を、リネットは見つめていた。
 一方的な強力すぎる力を持つものが、脆弱な先住の生物を狩る。
 ただひたすらに、快楽に酔うために。
 その光景は、自己肯定と種の誇りを味わうことのできる恍惚とした物であったはず。
 だが、今のリネットには、そんな高揚感はわき上がってこない。
 沈むように、濁った感情が心の底に低くたれ込めるだけだった。
 だから、気が付かなかった。
 リネットは気が付かなかった。
 その場から、姿を消している者がいることを。


 がくり、と、大きくひざを折った次郎衛門を、リズエルは見下ろしていた。
「リズ姉! 戻ってきたのか!」
「え…エディフェル…を、どうし…た!」
 痛みをこらえ、次郎衛門はリズエルを睨む。
 白い肌に、鮮血の紅が目立つ。
「今だけ、あなたを始末するこの時間だけ、邪魔をしないようにしてきただけよ。今頃ゆっくり休んでいるわ」
 前触れもなく、リズエルの足が次郎衛門の脇腹を蹴り上げた。
 そのまま跳ねた身体が、樹にぶつかる。次郎衛門の口から血が溢れ、その胸元を汚した。「こんなヤツ、私だけでも始末できたのに」
 余裕の笑みを浮かべ、アズエルがおどけた調子で言う。
「あまり時間はかけられないわ。手早くした方がいいでしょ? 留守を預かってくれているリネットのためにも」
 変わらぬ冷たい表情で、リズエルは次郎衛門を見下ろす。
「それもそうだね…、早く帰ってあげないと」
 アズエルも、おどけた調子を消して次郎衛門を見下ろす。
「そう早く、帰れるか…ってなっ…」
 樹に寄りかかりながら、次郎衛門は体を起こして身構える。
「…抵抗しない方が楽に死ねるよ、アンタ」
「死ぬつもりはないからな…、俺は」
 アズエルの言葉に変わらぬ調子で答えるものの、自分の肺で変な音が聞こえるのを、次郎衛門は気付いていた。
 このまま、次の一撃を受けたら確実に死ぬ…。
 その事を感じながらも、次郎衛門は立ち上がる。
 背中が焼け付くようにいたい。ぬめった感触が背中を伝うのが気持ち悪い。
「……あなたを、殺します」
 容赦なく、リズエルは自分の持てる力を解放した。



 おかしい。
 様子がおかしい。
 …リネットが気付いたのは、そのときだった。
 おかしい。
 そこにいるべき人物が、足りない。
 その事実が、リネットの背筋に悪寒を走らせた。